しろくろ

 

 

 

誕生日に従弟とカラオケに行く夢。何か女の子を誘ってくれたらしく、その人は来てくれて何か歌ってくれると約束してくれたらしい。中学時代の全く話したことない人。また凄いところから持ってきたな。結局すっぽかされたが、約束は自分とするものだしなと特に気にすることはなかった。

 

別のシーンで別の人(出自不明)と肌が触れ合う。熱は感じなかったが、凹凸を一致させるところまでいっていた。相手も僕もまぁええかみたいな感じの所業。

 

出勤時、夢の意味を考えていたところ、そういえばそろそろ誕生日かとなる。僕のではない。我が誕生日は良い子の日でずっと先(書いているのはその頃には日々に埋もれて皆覚えていないだろうと楽観)。なにかプレゼントできれば良いのだが、そういう立場にはないからなぁ。存在が生じたことへの感謝の祈りくらいしかできない。

 

 

ところで、「凹凸を一致させたい」って口説き文句としてどうなのだろうな。この日記の文脈だと何を求めているかは明らか(?)としても、何の脈絡もなくこれを発言して通じるとすれば、よほど日ごろ頭の中の言葉を遊ばせている人なのでは。ついでに「もう一生忘れないのでフッて下さい」というのもフラれ文句としてどうなのか。

 

個人的には言い回しについて遊ばせている訳ではない。ふと出てくる言葉を否定しないことにはしているだけ。「心は暇人」と同じくらいの感覚には戻ってきたのかもしれない。素朴な語彙はあんまり発話しないと、変な目で見られてしまうに違いない。

 

こういった自分の精神と言葉がばちっと当たる言葉を見つけるのは、文というよりも凝縮された語で、つぶやきでもなく、詩作の領域なのかもとふと思った。歌人さんに倣って自分の場の中にそういう媒体を設けてみようかな。これだと1日1更新可能かも。倣うのは共通項というよりは自分に無いものを採り入れるという感じ。いつか僕を好きになってくれた男の人が、文章ではなく140文字に凝縮して書いて見るのも良いのではと言っていたな、そういえば。漂流文というアカウントもあることだし、こちらもやってみるのも良き。僕には返ってこないし。

 

さておき。

 

ちょっと現実に戻り。

 

明日も仕事。女性上司とタイマンで雑談の方が心配ではある。お姫様先輩との雑談がどんどんエスカレートしていて、これってもしかして僕に聞かれているからそうなっているのかとへんな読み方が起こった。僕の存在自体がどうのというより、「オトコの耳」が聞こえるところにあるということ。女性上司があやしているように聞こえたり、2人して世界の被害者妄想を展開していたりする。別にコメントはしないにしろ、壁でも穴でもないから、何か影響はしているのかもなとか。

 

女性上司も実は中身はあまり話したくない人なのではという気もしないでもない。先輩男子とお姫様先輩は自分のことを話したくてしょうがない存在と読める。でも、女性上司は相手のことを見ようとしている感じがある。まぁこんなのもあくまで僕の世界の話だし、これが会話をしてみて変わるのかというと未知数。

 

休日出勤の日は弁当箱にも当然付き合っていただく。鯖缶と小松菜と人参とえのきの煮物、大根とパプリカのマリネ、いつものレンチン目玉焼き。

 

魚肉を日常に採り入れにくいのは、単価とは別に野菜と組み合わせがしにくいところ。気軽に野菜炒めできるものではないし、焼くにしろ、煮浸しにするにしろ、1魚肉1料理みたいなことになる。嵩増しができない。鯖缶は組み合わせられるから優秀。思いの外マリネが美味しい。切ってマリネ液(酢、塩、砂糖)に浸しただけなのに、随分柔らかくなった。隠し味は白だしと昆布茶。自分だけで食べるのがもったいない。

 

という感じで、休日出勤の前日の夜もなんのそのである。

 

1時間ちょいのインプット時間で十分動いているし、この日記時間合わせてもたかだか3時間。時間が無いってなんだろうな、ということを考える。

 

もちろん社会感覚としては分かる。常識人なので←

ただ、時間が無くて何かができないというのは、無いことにしたい何かのバイアスが働いている。もちろん、物理的に行けないとかはあるだろうが、物理的な移動と時間に対する感覚って厳密には一致していない。ここで遣われる時間って、その移動を捻出する精神エネルギーのことを言い換えているだけのような。

 

個人的にこの切り分けはとても大事なことで、ある程度の時間は精神で作ることができるが、本当にその時にしかできないことという意味での時間そのものもある。

 

例えば、演劇の公開日程。漂流文の背景画像になっている海で公開されるはずだったのが流れて、今週関東で公開されていたらしい。すっかり抜け落ちていた。熱が醒めたのか認識が更新されてしまったのか、「その時」の熱が流れると、後に同じことがあったとしても食指が向かなくなる。これが時間軸における縁なのだろうなと。捻出できる時間はあったのに行かなかった。

 

対象を基準として自分を動かすのではなく自分を基準として対象を見るかどうかを決めている。お姫様先輩はアウトドア系の人っぽいが、何かするという「対象」によって自分が動かされていることを自分が動いているとみなしている感じ。

 

あくまでお客様であって、参加者なり参与者という立ち位置ではない。

消費するって、消費させられているというのとセットよな。

 

文句もないし普通の生き方だが、僕はこういう世界に居たくはなかったのだと気付いた。

もっと、巻き込まれて良い。クスノキ先輩とか太陽の塔にエネルギーを感じるのと同じように、もっと中の波を感知する。

 

自然と見てしまう対象は僕にとって意味あるモノ。

交信でわらけてしまうとか、切なさがあるとか、何か通常の感覚ではないことに対するレーダーが働いている訳で。

 

言葉にも二重性があり、指示性をみるのか意味をみるのかで随分世界が変わる。

言葉は何かを指示するものだというのは当たり前だが、それとは別に意味があると思う。嬉しい気分とか、何かに対する衝動とかそれを見ようとしない人には全く見えないもの。

 

僕はずっと指示性で人の言葉を読んでいたが、意味だけ読んでいれば良いなとなった。指示性の部分は識字でなんとかなる。意味を読むことは、自分を使ってなおかつ自分と連動させず、独立して言葉(対象)を捉えること。

 

この流れで、変な歪さ。人の意味を読み取って、それが仮に一致していたとしても、それを有効活用してはいけないという縛りがあった。このときこれをしたら相手のポイントがアップするみたいなことが分かったら、あえてそれをしない自分。

 

こういうのも止めないといけない。

でも、世の中には年功序列とか立場による順番が確立されていて、列に割り込むのはマナー違反だしという無駄なジレンマ。

 

なんのこっちゃだが、当人にとっては世界を透明にするために必須の観念である。

現世(うつしよ)はもっと楽しくなれる。

 

本の話で最後、と思ったが、最近寝不足気味っぽいから早めに切り上げる。

 

何かすることがあるのであれば毎日すればいずれ終わる。毎日生きていればいつか人生が終わるのと同じ。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い言葉を。