据わり

 

 

かえではたまたま通勤路の個体が艶っぽいのかもしれない。曇り空の下でも変わらない。やはりイチョウは明るいところで映えるなというお気に入りの瞬間がある。通勤中のあくせくした流れの中で上手く撮れるか分からないが、僕が見ている美をお裾分けしたい気分。明日晴れていれば試してみよう。

 

帰り道はお久しぶりの三日月さん。雲間に覆われる瞬間を眺める。満月だとどこに居るか分かる透け感があるが、三日月の光量では一瞬で行方不明になった。冬の雲が分厚いだけかもしれない。

 

人に求めなくて良いのはとても気楽だ。欲求があったとしても渇望ではなく、あったら良いなというくらいの感覚だから無くても、というか無いのがニュートラル。世界からは十分いただいているし。

 

フラニーとズーイ」で、「自分の洞察や知性に対して理不尽かつミステリアスな感謝の念を抱いたことがない人は信用ならん」みたいなフレーズがあり、なんだか分かりみ。見ていることと見えること。

 

ほんとに、凪いでいる。そろそろ何か波が起こる出来事があっても良いのでは。

 

ちょっと怖いなと感じたのは、おしゃれな先輩が先生に対して幾分当たりが強いシーンがこの二日で二回あったこと。聞いていると先生はまったく先輩のことを責めてないのに、先輩は自分のことを責められていると感じたのか、若干ヒステリックな受け答えになっていた。

 

こういうのが怖く感じるのって、僕のトラウマというよりもう関わる余地がないのと、赤ん坊の泣き声に感じる不協和音に近い。別に人格を否定しているとかではなく。恋人さんの不機嫌は若干好物だし(変人)。まぁこれ(怒気)を外に出すというのはあまり良いことではないわなというだけ。

 

流し見している僕は若干試行していて、心はニュートラルでも元気そうな声を出すこと。この前のヒトカラの呼吸法を使って抑揚も意識して、なるべく良い感じの声でお客さんと接する。声は波だからよく反響して面白い。

 

やはり、世界における人はどうであるかよりどう捉えられるか。僕が内心試行錯誤しているかなんてそれを言わないと分からないし、別に偽っている訳でもない。いや、別に元気でないということはない、毎日小躍りしながらお弁当作っている。多めに作った白菜の浅漬けの味を変えるため鰹節とめんつゆ1垂らしを追加。美味しくてしょうがない。

 

自分が○○であるという状態への評価は、人生において雑念に含まれるのではという仮説が提示されている。凪いでいるという評価はなんというかエゴを補強する根拠にならないから問題ないが、浮いている、沈んでいるとなると、そういう傾向であるエゴが補強される感じ。

 

夏休みの宿題みたいにそういうふうに観測されるという見方だとエゴには何も栄養を与えない。案外このエゴ(自分が自分だと規定している積み重ね)から離れた方が自分で居られる感。

 

ホーム、アウェイでいうと、本当のホームって、自分にくつろげるということ。くつろげる関係とか場所とかは無関係に、自分が自分と一致しているとき。自分のことを完全に許容しているとも言える。だから、自分の中にあるものが無意識でこねくり回されて、アイデアが浮かぶ。

 

ちょっと危惧。世界は自分としているが、これって、下手すると何をしても問題ないという世界観になるよな。都合良く生きれば良いみたいな。これは全然違う。他人の世界も別の世界であって、配慮なき自由はない。昨日ちょっとうっかりして、全公開の日記にお友達限定の日記用のコメントをしてしまった。起きたあと違和感があって確認したら全公開になっていて速やかに削除。リカバリーがまぁまぁ早かったと思う。

 

凄くどうでも良い話だが、もしかしたら、僕の日記を読むことって人が自分で居られることに寄与しているのではという感。だいたい定時に更新されるし、書かれているのは情報でもなく単なる個人の徒然で、コメントとかイイネ!とか読む人に何も求めてない。

 

書き手当人の話なのだが、最近の頭のすっきり度が半端なくて。「愛なき世界」で植物は6週間の気候の変化を記録していて、これによって花を咲かすとかを判断しているという下りがあり、登場人物がびっくりしていたのだが、逐次の記録には弱くても、人はもっと長いスパンを記録できる。記憶力と捉えるのは悪手。これだと、社会的に大事なことを外付けで残す能力みたいなことになり、当人の中で残っている残滓が掬えない。

 

自分にくつろいでいると中に残っているものはデータ容量換算でどれくらいになるか分からない。そのものとして残すのではなく自分の世界としてという意味で、他人と照合してもズレるだけ。でも、それが存在としての当人。そうやって当人の世界が構築されているところを否定するなんてできない。

 

でも、一般的世界観だと自分が大事だと思うことを相手にも残ってしかるべきというのがまかり通っている。そんなモノサシ突きつけられたら、いや知らぬ存ぜぬと防壁が出てくるのがしかるべく。

 

ここを大事にするなら、AIの方がパートナーになりうるのでは。

AIパートナーだったら、大事だって記録させたことはほぼ忘れないだろうし、都合良く振る舞ってくれるはず。

 

人は忘れることができるのは脳の機能だとしても、反対解釈で忘れないこともできる訳で。

 

 

あくまで僕のモノサシだが、こういう他人のフィルターが外れた後の方が自分の世界を生々しく観測できる。誰かがあの時何を言ったかとかどう振る舞ったとか。それが自分にとって都合が良かったか悪かったで世界を捉えていない。

 

自然は都合良く美しい訳でもないし。

 

僕の原風景はカーテンの隙間から眺める豪雨。

 

人って自分にくつろいで他人にもそれを語れるようになったらこれくらいの情報量ありそうな。

 

欲しいでも語りたいでもない承認される前にある自分の中にある記録。

 

僕は人のそういうことが気になる。

こういうエピソードは虚飾なく語られることはないし、近くなっても同じこと。近いからこそ汚点は語れないだろうし。

 

なんかこれ、デジャブ感。

何回も書いているのか。

 

ただ、ここからの発展としては、他人に自分が残るかどうかという変なモノサシをどうでも良いとすること。他人の世界のことは知らないけど、読む意志をもって読んでいるのはたしかだから、僕を読んで世界観が変わったとしても知ったことではない。

 

あと、これは普通に現実生活にも応用できる。

例えば、宵顔さんに次会ったときにこの世界観で接してみるとか、仕事でより元気に見せるのも1つ。

 

もともと守りたかった自分像ってなんだったのだろうな。

今や昔。世界に対して自分を守っても誰も助けてくれない。

 

意図も意味もない何処からも依拠されない自分で良いような。

なんでこれが駄目なのかというと、自分と仲良くしてないからだと想う。

 

はい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。