寂しさ

 

 

 

なんとなく未来のことは考えないようにしている無意識を引っぺがさないと。これは思考停止に当たる。なんとことを考えていたところ、お友達の星座占いに便乗したら、来週は未来(遠いところ)から招待状が届くのだとか。面白いな。

 

本日の朝ごはんは、作り過ぎて冷凍してあった煮物とご飯。梅干し、納豆。昼ご飯はスーパーでお弁当を買って、レタスとワカメの味噌汁を作った。夜は、チキンソテー、付け合わせに人参とブロッコリーの芯のグラッセにするつもりが、蒸す用のアルミホイルがなかったため全部まとめて炒めた。あとはサニーレタスのサラダと、そろそろ悪くなりそうな白菜の残りを塩昆布と胡麻で浅漬け。

 

あと、昼に髪を切りに行った。理容員さんは相変わらず楽しそうに生きている。本日の夜に窓をクリスマス用にペイントするから見に来て下さいとか。散歩ルートではないが25日までに見に行こう(25日で消すらしい)。合間に洗濯機を1回。

 

午前中にはウォームアップで1冊。Kindle本でふと人生で初めて読んだライトノベルを検索したら未読の短編集があって、一息で読んだ。主人公の女性(?)は人間と鬼(アヤカシ)のハーフで、なんか好きだったなと思い出した。小柄な体躯と少女のような養子、白髪、老成した思想、アルコールを主食とする嗜好。確か高3時に途中まで読んで、大学以降に続きを読んだ。ちょっと西尾維新さんの戯言シリーズに通じるものがある。

 

僕のかつての小柄フェチって長く過ごした恋人さん由来かと思ったが、根はもっと前にあったのかもしれない。基本無表情とかもある。某有名な水色の髪のあの人とか。

 

今はちょっと変わってきている感じ。一見よく分からない、自分の経験則が適用できないというのは残っている、かも。

 

この流れで、お友達が人生で見てきたアニメを挙げていたため少し便乗。僕のアニメ世界が爆発的に広がったのは、大学で大阪出てきてから。それまではテレビで見ていたがゴールデンとか日曜の夕方の枠しかなく、深夜アニメもなかった。大学時には近くにレンタルDVD屋さんがあり、暇人だったため、目に留まるアニメを借りまくった。攻殻機動隊サイコパスとらドラ!四畳半神話大系蟲師夏目友人帳とかモノノケ、刀語はリアルタイムだったっけ。UN-GOもなかなか。アニメ映画も軒並み見たな。

 

 

こういうアニメとか漫画のこととか書くと思い出すことがある。むかーしちょっと関わっていた本格的なMの子が、ミクシィだっけ、どこかのSNSに招待、いやこの辺りはあやふや。で、初日記を書いたときに自分が好きなアニメを羅列したら、そういう文章ではなくていつものようにもっと(高尚な)心理学・哲学な考察みたいなこと書いてよというクレームがあったこと。この子は僕の心理学的知見が読みたかったらしい。

 

低いとか高いとかは僕の中にはなく、どれも同じなのだけどなと思ったこと。

 

漫画もアニメも消費物としては見ていない。どれも現実として等価。

 

何が大事かを、自分の時間をかけたで換算するのも割と非現実な気がしないでもない。理容員さんが、自分がいままでしてきたゲームの統計を取りたいと言っていて、1万時間くらいはかけていると言っていて、凄いなと思ったが、人生自体にはそれ以上の時間がかかっているよなって。

 

要は、どんなことをしていてもそれは自分で過ごしている時間な訳で、全部自分の現実時間なのではという説。何かにかけるとかそういう話ではない。

 

ここで、人が捉える現象は三次元なのかというここ何カ月か頭の隅にある課題が浮かんでくる。

 

何かを見るとき、たしかに視覚は対象の三次元的な意味での瞬間を捉える。花が月が綺麗でも良いし、演劇に感動することでも例示はほぼ無限定。ただ、それがそこに在るということは、過去からの連続性があるのが必然。花が綺麗なのは種から育ってそうなっているし、月は周回で目に入るものだし、演劇は作者が演出して出演者が稽古をしたことが前提に舞台が成立する。

 

これって、当然対ヒトにも適用できる訳で、接することができるということはその人の来歴がないと無い。これはもちろん自分にも適用されるし、なんならすべてに未来軸もあるよなと。死を怖れることができること自体、人が4次元世界に生きていることの証左。

 

それでも人が大事にしているのは三次元っぽいのがどうも不思議だなという次第。

 

僕が思考停止しているらしき未来軸もこの辺りにある。

自分がしたいとかなっているべきとかではなく、対象を捉えるときの未来軸。

 

午後は、法律学を読み込んでいた。

大事でなくなってきている感が徐々にあって良き。

 

専門書も文体を味わって良い。情報とか学説を読みたいのであれば別の読み物がある。

本日は、不法行為と刑法で、法が社会生活上駄目としていることはなんぞやという視点から読んでいた。

 

やっぱり法が個人を助けることはないんだよなという感じ。いや統計的なヒトであればあるいは。自分を基準に法律を考えても、もともと定量的に在るべきというところしか見ていないからフラれる。

 

手続とか手数料とかコストがかかるのはある意味当たり前で、国家はなるべく手を出さない、出すならしかるべき手続を経る必要があるとすることで、国民の自由を守っている。

 

自由に振る舞えるということは他人に迷惑がかかるとセットで、法律は最低限秩序を守る網として機能すれば良いという思想。ある国ではワクチン打って無くてスーパーに行ったら捕まるとかあるらしいことからすれば、日本はかなり人権に配慮している国だと思われる。

 

人権の本質は、守られるではなく放任されること。

自分にとって都合の良い縛りが法律でされるということは、そのうち自分に都合が悪く縛られることになる。

 

僕が法律学読んでいて良かったなと思うのは、素朴な人が正しいと思っているルールは全然正しくねぇなというところ。正しさを外に及ぼしたいのであれば説得するべきなのに、力関係で押し付けるようにしている。

 

そうして、僕の素朴なルールには正しさは存在しないということも分かった。

誰かにも適用できる気がしない。

 

少なくとも、承認欲求は無い。

僕がやっていることを誰がトレースできるとは思えないし。読書することが世界の鮮明化に繋がるって。脳トレ的な意味ではなく、まだ僕は僕になってないだけ。

 

ただ、個別的な誰かにとっての存在意味というのは想う。

 

単に不特定多数に承認されることを快とせず、人を個別的に見たとき、相手が自分を個別的存在として見てくれるのか。まず、当人が個別的な存在になっていないといけないのだが、そんな人はあんまり居ない。

 

僕を意志的に知りたいと思う人というのは、別に僕が知られたいということでもなく、現実的な経験的人格から離れているかどうか。

 

別に一般的な意味でのパートナーを大事にするという行動はできるし、するし。

気にかけるだったら、視界に入っている人に対して全方向。

 

だから、こういう意味での大事は、僕にとっての大事ではない。

領域に入っている人だけを人とするって、なんか不自由っぽい。

 

どうでも良いが、出雲大社伊勢神宮も行ったからそろそろ熱田神宮に行ってみたい。三種の神器の剣が置いてあるのだよな、たしか。名古屋の丸善はいい思い出があるところ。

 

近いうちに行くのだろうな。

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。