存在とぞんざい

 

 

 

何処かで「言葉が届く」というフレーズを見かけてどういう事態なのだろうと、素朴に真摯に考える。ふわっと感覚的に捉えれば分かるしすばらしいことだろう。ただ、具体的に考えると、ナカには色々とありそうだ。主張が通じる、は抽象的な議論なら良いかもしれない。直感では少しちがって、自分の言葉が好意的に受け入れられる、共感が持たれるということなのだろうなという印象。言葉に自分が込められているのも含意している。これはこれで良きこと。

 

僕はこういう意味で言葉が届くより読んだ人が良い夢を見られる方が嬉しい。これも一種の届きとすれば特に違いはないのか。

 

ふと思った。否定的な接続詞の語用として、「でも」より「ただ」の方が好み。でもは前の文自体を否定にかかっているが、ただは「但し」で、前の文は肯定した上で例外を語りますよという指示的な意味がある。

 

一時期全く夢を見なかった。厳密には覚えていない。現実に窮々としていると夢を認識する余白がないのではと想像する。

 

本日見たとても良い夢の話。

 

お別れをした二大存在の共演。1人は昨日も書いていた18歳の頃亡くなった父親でもう1人は、最も長く過ごした元恋人さん。この人は現実的に亡くなっているかどうかは分からない。他の伝手が全くないため近況が知れない。これはこれで凄いことだな。他の繋がりを全く依拠しない繋がり。そのせいで随分大変だったが。僕の力不足。

 

現実の人生の世界線上では出逢うべくもない2人がなんとなく仲良くしているシーンがあり、嬉しかった。たしかになんとなくウマは合いそうかも。あと、元恋人さんと夢の中で和解があった。とても良い気分で起きる。自分の中にあったしこりの1つが融解した感じ。悔みは何もないんだな。きちんと残っているだけ。

 

出勤中に今まで出逢った人々を掘り返していて、ふと、あの人はもう亡くなっているかもしれないという想起により途方もない「悲しさ」が起こる。誇張なく、生きていかれないくらいの。ただ、その後、この悲しさは美しさと似ていると感じた。こういう喪失されることが前提の儚い美しさの中で生きるしかないし、他人の存在に僕の意志は介在できない。たぶんこれは社会的にどれだけ近くても同じこと。

 

仕事については特に言及することはない。強いて言うなら毎週の定番の、水曜日がもう終わってしまったという気持ち。

 

ちょっと切ない物語の舌が選んだ新刊は、疑似記憶という技術がある世界の話。

ナノマシンが入った錠剤を経口投与するだけで、本来の自分の記憶を消去できるし、疑似的に良い記憶も植え付けることができる。記憶の改ざんは日常的なものだから特に突拍子があるものではないが、舌が選んだだけあって、良い感じ。技術の描写が細かい。個人的には「始まる前に終わっている繋がり」みたいなのが、ちょっと共時性があり選んだのだが、そことはあまり一致していなかった。これも良き。

 

架空の幼馴染とのやり取りがあまずっぺぇ。キスしてみようか、何回したっけ、3回。じゃあ4回だ、寝ているときにした分。(じゃあ5回だな)。

 

自分の幼馴染の記憶が思い出された。成人後、1回飲んで1緒に寝て(文字通りの意味しかない)、起き抜けに1回だけ接吻。レモンではなくタバコのフレーバー。なんの話や。

 

 

さておき。

 

社会的な属性を踏まえて振る舞うことは社会世界で生きる上では当然大事。ただ、中までここに囚われることは無意味な枷としている。ここになるとブレーキばかりがかかる。内側では学習段階の感性のままで良い。

 

凄い言い分だなと思ったのが、行動経済学でいうところの「無条件の愛」論。これができない人は社会的にも学習段階でしかないというモデル。極論と一蹴するのは簡単だが、少なくとも人にはそういう可能性があるとすると面白い。

 

そういえば、社会人類学。ある集団における人の捉え方には、敵/味方という括りと「よそ者」が居て、敵とは婚姻できるが、よそ者は人ではないというのがあって、素朴な仲間内の関係から社会全体までこういう入れ子構造よなと思った。ホロホロ鳥もこういうコミュニティを形成しているとのことというのが「AI時代の法学入門」。この切り分けをすることは高次の脳の機能ではないらしい。

 

この叙述で面白いのは、敵対的な感情が起こる人は仲間内の範疇だということ。そこに存在しているから、そういう感情が起こる。個人を個人としていちいち捉えたら同族を前提とした感情は起らなくなる。相手の事情もあるし、自分の事情もあるし、そこに癒着はない。

 

人でなしという意味での憤怒みたいなものはその人を自分と同じような人とみなしているということ。よそ者に対する感情は十字軍の歴史みたいなことになるからどっちもどっちだが。

 

人は自分の存在を、社会の前提ありきで認識しないといけないというのはしょうがない。

ほんとは社会そのものというより最初にインストールされた世界観だと思うが。胎児は母体の感情と同調して世界で生きる準備をするという話がなかなかエグい。妊娠を望んでいたかどうかみたいな機微もインストールされるとか。

 

ここまでを踏まえて、存在の話。

 

自分の存在もこういう入れ子構造であって階層がある。

外用に元気に過ごしている自分と内側に居る暗がりとか、近しい人にだけ振る舞える無防備とか。

 

この内側に限ると肉体的な人間とは全然関係なく変化している。これは僕の話なのだが、直近一年前の自分と今の自分の内側の自由度が全然違うから、前情報は何の意味もなさげな感じがある。

 

人が存在しているという固定的な見え方が虚構であって、人が居るという固定される事態自体が例外なのではという仮説。主観的な時間軸ってまぁまぁ間延びしているし、自分の世界に居る人も間延びしている。もう居ない人をまだ居る人とする、みたいな。

 

哲学的ではなく素朴な話。

 

僕がお別れした人を自分の中で大事にするのは、物理的に居るかどうかとは無関係に自分の中に残っているからだし、現実的に接する人も当人の主観とは絶対一致しない。この不一致が大事にできるということ。

 

結局はどういう考え方が生きやすいかどうかという選択だと思う。

考え方は行動になるけど、行動自体も存在と連動している訳でもない。

 

これを素朴と読める人がいるなら届いたといえるのかも。

 

なんでも良い。おしまい。

 

おやすみなさい。良い夢を。

 

(宵顔さんの記事、知識パートがしっかりしている。なんの変化だろう(好き過ぎか))