ひとり行く

 

 

本1冊、演劇1本、無数の雲と遠くの山に雪化粧。面影と満月が1つずつ。

 

フルコースのようなありふれた1日。

 

 

起き抜け。ウォームアップでインターネットの波を漂いいくつか文章と漫画を読み、朝ごはん。竹輪は味が濃いから残っていたささみ1本で代用した雑炊。ちょっと濃い気もしたが美味しい。

 

 

 

その後は洗濯機を回しながら、法律書を読みつつ、「リトルナイトメア」というゲームの実況動画を見る。好みの声の人。好みには男性も女性もあって自分の基準がよくわからない。本とモニターを同時に眺めるというよりは、本のイメージと見ている動画を並列させる感じ。残すには別のことと連動させる方が良いとも聞くし。

 

そういえば、中性的な文体の読書家(? 僕より古典寄り)の人の文章に、自分は「男好きではないか」という話があった。この文脈で言えば、たしかに僕も「女好き」かも。シンボルとしての受容とか淑やかという意味ではなく、話し易さ。男性って社会的な像として負荷がかかりがちで、あんまり変な話ができないような感じがある。なんというかこう競争の天秤にかけてくる、みたいな。でもこれって僕の持論というか経験則上の「両性とも異性にはやんわり優しい(領域がある)」ということなのかも。経験則は例外という穴だらけなものだからあてにはできない。

 

別種だからすんなり話せるということもあるのかな、というくらい。

 

さておき。

 

やっと出発。

 

劇場のアクセスを検索したところによれば特に迷うこともないだろうし、早めに着かなくても大丈夫かなと思ったのだが、出発したのが遅かったからなんとなく新幹線を選ぶ。とかいいつつ、最寄り駅の本屋で旅用の本を5分ほど迷っている。なんとなく中田永一さんの「ダンデライオン」が選ばれた。行き帰りで読んだ。後で。

 

新幹線の自由席と喫煙ルームの間の通路に陣取り、本を読みながら車窓の景色を眺める。冬の雲って距離感がまちまちで面白い。京都駅に着く頃、遠くに見える山に白粉がかかっていてテンションが上がる。「さすが京都」。

 

大阪駅の地下は魔境だが、京都駅の地下も魔窟感がある。だいたい京都に行くときは京阪で、最近は阪急ルートが追加されてどちら降車駅はすっきりしている。JRはほとんど使わない。ちょっと迷ったら間に合わなかったかも。

 

この辺りで思っていたことは、交通機関がなかった頃の人の移動って日ないし月単位でかなり大変だったろうなというところと、リスクがかかるかどうかよりは意志の問題だよなというところと。行ける可能性かあっても行こうとしなければどこにも行けない。憲法が保障している移動の自由は可能性にかかっている。

 

新幹線でこのまま名古屋に行こうかという衝動にかられたが抑えた。

 

魔窟から抜け出し、地図を見ながら鴨川に向かう。

変哲もない住宅街でこんなところに劇場があるのか、また迷子かと思ったが、全然間に合った。着いたのが30分前で、受付もできそうだった。とりあえずスルーして鴨川を散歩。

 

 

 

賽の河原か?

これから観る演劇も「サイ」という単語が入っていたから、何かの縁なのだろうか。と、解釈した。今回の演劇は何の縁もなくたまたま見かけて面白そうで選んだだけで、予習もあまりしてない。

 

やはり、サイ違い。「犀はひとり行く」。

2時間ちょいあって、尿意(下世話)大丈夫かと思ったが、問題なかった。

 

演劇が癖になりそうだと、はっきり自覚できた。今まではガイドになってくれ人が居て、本当に自分が演劇を読みたいのかが未分離だったから。この劇評(?)はもっと静かなところで書く。冒頭は既に終えた。

 

芸術における演劇というジャンルの話と、僕なりの観方。最初の感動が正しかったということに尽きる。

 

最初に観たのが[PIPE DREAM」という作品で、僕は演劇と並行して舞台装置自体を観ていた。何気ない音とか表現とか関係なさそうな動きとかはどこまで演出されたものなのだろうって。

 

もちろん移入するとか推しの演技を観るということも正しい。

 

正しさを自分で決めてい良いという要素は芸術の全ての要素だろうな。演劇に特有なのは、時間と空間を切り取っているのに現実上の空間に舞台があること。映画にも中に人が居るが、その映像は現実の空間とは切り離された、もう終わった時間。演劇には自分と同じく生身の人間が居ることが本質なのだろうな。架空が現実に在るという倒錯。

 

あんまり意識化されてないだろうが、演劇を欲するのってこの絶妙な次元に自分を置くことで自分が現れることを無意識で求めているのではと思った。たぶん、製作陣もそういう世界に生きていると推測。テイク数重ねて創ろうとする完璧な劇も今の技術ではできる(テレビドラマとか)のに、それをしないというのは、1回しかない現実生活となぞらえているような。

 

いっぱい書いているが、あっちで書けることは無くならないし重複しても問題ない。

中身の話はあっちで書くとして。

 

舞台装置としての光の扱いが凄かった。スモークが漂っていて、木漏れ日なのか月明りなのか火事の火の明かりのかが読み取られるようになっている。照明の絞り方とかあるのかなと推測するが、舞台裏は中学校の学芸会以来行っていないから知らない。

 

真っ暗になったのを眺めると、蛍の光みたいな仄明かりが点々としている。

なるほど、出演者がこけないような補助灯っぽい。これも推測でしかないが。

 

演劇の要素として面白いのは、観る人も作品に参加できること。観る人が居ないと成り立たないというような下世話な話ではなく、空気感を創るという意味。

 

僕はこれを「まなざしそのものになれる」と解釈したのだが、演劇ベテランはどうなのだろう。まなざしそのものだから、舞台装置に目を向けつつ並行して物語に移入しても良い。

 

終わった後というか前後で、僕の現実はメガネフェチというのもあるのだが省略。

全部誰かさんの面影を観てしまうのはやめておいた方が良い。たぶん今日見かけた人は違う。手の大きさとか動きとか。

 

 

今日はもう1つ物語がある。

 

ダンデライオン

 

タイムマシンではなくタイムリープの話で、意識上の時間軸を移動する話。

後頭部に衝撃を受けることによって、10歳の自分と30歳の自分の意識が交換されて、自分の人生を変えるという話、でもないのが面白い。中田さんって要は乙一さんなのだが、なんだか伊坂幸太郎さんぽい文体。

 

観測済みというフレーズが良く出てくる。タイムリープしているのだから、もちろん未来は分かっている。ちょうどあの大地震とかリーマンショックとか、の出来事は変わらない。

 

ついでに、登場人物の動きも何にも変わってない。

観測済みというという規定値に縛られているのではないかという疑義が主人公にもヒロインにもあって、その軸から外れた後のエピローグが本筋なのではという感。

 

目を瞑って意識を集中して未来を意思すれば、それが観測済みになるというすんげぇややこしい逆説。

 

これ読んだ後思ったのが、「僕は誰と出逢うのだろうな」だった。

もしくは誰とも出逢わないでも同じこと。

 

別に運命論者でもないし、まぁまぁ現実はシビアに見ていると思う。

「人は自分の世界でしか生きていない」。これ真理。

 

なんかすごく気になっていた読書家の人とは合わないなと思うことがちょっと解明。

これは劇評でもなんでも良い。

 

何か読むって、自分の時点と連動しているし、場所とも然り。

感想文という枠がそういうものであるというのは分かるけど、外のこととして語られる文体に味はない。

 

面白い文章の人は引用を集めるのが趣味とのことだが、引用なんて集めても仕方なくて、自分がそれをどう咀嚼したかの方が当人にとって意味あることなのではと思ってしまう。

 

引用って変な話、それを読んだという証拠でしかない。

まぁ証拠が大事だというモノサシに疑義はないが、誰か(自分も含む)に表明できる証拠を集めなきゃいけないというのはなかなか大変なような。

 

僕が引用しないのは技術的な問題もありますが。

 

あと、もう1つ変な話。

 

たまたま便乗した星占いで、未来からの招待状を受け取る週であるという予言があったのだがなかった。ただ、これって、未来軸からの自分への招待状という説が起こる。

 

今の自分が本当に欲すれば、だいたいやり切る気がする。

この上で、自分がどうしたいかさっさと決めなさいやって。

 

人は結局1人で生きるものであり、だからこそ縁が大事。

この世界観が通じるパートナーは現れるべくもない。

 

僕は僕の人生劇場が楽しくてしょうがないため、そこへの寂しさはないのだよな。

虚しい自分はない。

 

はい、おやすみさない。

 

良い夢を。