ひとりでもない

 

 

 

夕飯の食材の調達のため外に出ると、進行方向に濃いオレンジの夕日、反対側にはまんまるお月様。帰り道は最短ルートではなくなるべく月に近づく道を取った。

 

満月を見ると還りたくなるのはなんなのだろうな。

 

昨日の演劇の中で人は月とおなじような物だというフレーズがあって、生物/非生物の括りで考察したのだが、生物の定義が変わると月も生き物になるのかもしれない。

 

 

昨日の日記の原稿について。Wordで書いていて、雑炊と賽の河原のところでは画像を貼り付けていた。コピペでは画像は反映されない模様。直そうかと思ったが基本なりゆき任せ。賽の河原だけ後付けで貼っておくか。何かの作品なのかもしれない。

 

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さておき。

 

明日から最遅番。日をまたいで書くことになる。お待たせします。

 

昨日の今日で劇評(?)書き終わるのは我ながら速い。人生上のタイミングに合っていたということもある。平家物語と浄土宗の思想を現代に持ってくるとこうなるのかというところと、素朴な自分のことと。

 

「したいこと」というのは、それが心を占有しているかではなく、現実化までの社会時間の長短で決まるという尺度が抽出される。これはかなり使い勝手が良いモノサシなのでは。意志とは無関係なようだが、意志って結局出来事が起こったことを後から説明する概念とししているし、少なくとも法律上の意思はそう捉えられている訳で。

 

浄土宗についてはほとんど知らなかったため少し調べた。念仏を唱えることで極楽浄土に生まれることができるという宗教観。これを非科学的とか無知とか評するのは簡単だが、時代背景とセットで考えると、よくできていると思った。

 

宗教は内側の精神の平穏にかかるものであって、戦乱と身分制に固定される人生においての救いは来世とか死後にしかなかろうなと。この宗教を開いた法然上人が実際にそれを信じていたかはここでの問題ではなく、少なからずこの思想によって救済された人が居るということが全て。政治と結びつくと凶器になるイメージは外にかかっている。だから政教分離という制度が創設されている。

 

僕個人の思想としては、宗教も科学もスピリチュアルも手段であって、何を使おうが内心が平穏になることが大事。内心には善悪も正誤も比較も無関係。現実はもちろんその時代の社会に連動させないと仲間外れになって生きられなくなりうる。

 

内心上のアイデンティティに絶望を付属させないといけないというのも現代の宗教味がある。個人は個人として尊重される建前があるのに実際は優劣があって平等に扱われることはないし。抽象的な個人という意味での人間の観念が発明されてからずっと付き纏っているものみたいだが。生物学上のホモサピエンスは存在したが、人間が生まれたのはもっと後のこと。

 

そういえば、演劇の良いところ。客席が暗いから泣いても誰かに見られない。

移入といえば移入なのだが、自分の感情に引き直している訳ではなく、役者が演じる架空の人物の感情そのものに移入している。泣いているのではなく泣かれているみたいな。

 

こういう意味で、言葉を綴ることも書いているというより書かれている感があるのだよな。自分が言葉を選別して配置しているのは現実的には確かだが、何によってそれが選ばれているのかはブラックボックス。何かについて書くということは結局のところ自分と向き合ってまさぐる行為のようなもの。普段やらないことだからエネルギーを使う。

 

月に向かって歩いていた帰り道、平坦な住宅街ではないから全然近づけない。その時ふと、演劇の舞台と、音楽のライブステージの違いを想った。演劇の舞台における演者と観劇者の境界線はあいまいだ。無音の空間で携帯が鳴れば舞台を壊してしまうという意味でも1回しかない作品の制作に参加している。翻って、ステージの方ははっきりと演者と観客が分かれている。あくまで観客はステージの一部という感じ。ニュアンスの違いでしかなさそうだが、僕がライブステージにそれほど惹かれないのはそういうことなのか。

 

あと、既知のことには興味が沸かない=無意識にとって省エネになるという発想から、何かについて知っていると思いたくなるのはある意味人間の本能なのだろうなと想った。知らないことを知らないまま受け入れるのはしんどいから、知ったことにするか遠ざけてしまうという本能。これって自己紹介にも繋がっている。何故この発想が出てきたかは知らない。

 

やれやれ。

 

また「その犀はひとり行く」の話。これは劇評(?)書いた後に知った情報のためあちらにも書かれていない。

 

犀が登場するのは、主人公が処刑する前日に仙人みたいな人と出逢ったシーン。人と月は同じようなもの、魚もそう、みたいな後に、西の土地で犀を1頭見かけた話が出てきて、人も犀のようにひとり行くのだとタイトルが回収される。

 

何で犀なのだろう、何故犀でなければならなかったのかというのは最初から印象にあったのだが、どうやら原始仏教のブッタの言葉に「犀の角のように独り歩め」というのがあるらしい。なるほど。ただひとりの自分の道を歩めという意味では、劇評的文章の結論と一致していた。突き詰めれば存在は1つずつでしかない。でもそれで良い。

 

そういうモチーフがあることを知ると、仙人のような人が釣りをしている姿は太公望から持ってきているのかも。封神演義(漫画)大好き。

 

んまぁ、孤独は肉体の感覚でいうと極寒に近いから、暖が必要なのも分かる。これがコミュニティだし社会だし、自己感と絶望をセットとするのも、絶望で繋がり合う誰かが居るからというのはありそう。

 

自分に絶望しているのは他人ではないし世界に絶望するのも他人ではない。

 

あぁ、次に観に行くことが確定している演劇の話。

架空の登場人物が創作されている訳ではなく、現実の人の発話を構成要素としている。

 

ここでふと想ったのが、架空の人物の台詞と、現実の人の発話ってそれほど違いがあるのかということ。「ことばと意味」という本の中に、発話行為という意味内容には発話者の背景とか意欲とかは連動していないという話があった。

 

そうすると、引用されたフレーズには独立した意味があり、それを語る役者が代弁することもできないし、それを言った人格が新たに創設されるのではということになる。誰かが語ったことが伝聞で語られるとき、加工が行われることが多いのは生活上の経験則。仮に一言一句同じように語ったとしても抑揚によっても変わるし、なんなら聞き手が変われば意味内容は全然違うことになる。

 

この発想はとても面白い。僕は書くようには話せないし、かといって文章が自由に書けるものともしていない。文才のことも知らない。でも、存在として懐いている人はたしかに在る。

 

自分が確立したものだとするのが現代の定説だが、その自分がどの面でも貫徹されない以上、自分を架空として創設しているのではという反対説。意識できる自分だけが自分であるとするのは自分に対して知ったかぶりが過ぎるのでは。

 

そうそう、犀の話のページに、無駄な友との人間関係は断捨離したらいいみたいな話があった。自分を成熟に導くものは全て友であるというのも。僕があんまり寂しくないのもこの辺りなのかなと思う次第。

 

定期的に交信するような人間関係は全て捨ててしまった。LINEのアプリに通知が来ることは母親の気まぐれ以外にない。交信してないと繋がっていないと思う関係は要らなかった。使われるのは時間だけ。

 

ただ、成熟についてはちょっと疑問。

人に完成があるとすれば、「生まれたとき」であって、あとは衰えていくだけという発想が起こる。世界に対して完全な受容ができているのが最初。時系列での経年と成熟を組み合わせざるを得ない心情も分かる。

 

個人的には成熟した人というのはフィクションで、興味が起こる=知らないと想える人物とだけ接するのが吉なのではという感じ。

 

人と居ても寂しいと感じるのであれば、それは暖を取れる存在ではないし、自家発電が足りないだけかもしれない。

 

はいおやすみなさい。

 

良い夢を。