彼岸

 

 

年末とクリスマスの空気に内心が浮かれている。たぶんほとんど変わっていないのに、温度差で自分の対応がやや不親切に見える。

 

浮かれているといっても別に何かが起こる訳でもない、ということもないのか。

次の演劇は来月の大阪と決めてまったく意識の外だった。クリスマスに東京で観るという可能性が意識されると、別に予定も無いし予算上も問題ないな。行きか帰りをバスにするとか、それなら草薙剣をお参りに寄っても良いのではと可能性が挙がってきて、自分議会が発足される。

 

楽しいことが続くと悪いことが起こるという迷信ももはやないのだが、もう少し頭を整理してからでも良いのではという反対意見が起こる。クリスマスに会えるというのもなんだかでき過ぎ感。精神の胃腸は強靭だから週一で演劇を観て劇評(?)書いても問題はないぞ、カモンという遊び心が賛成票を投じる。大阪東京間の移動時間があれば3冊は読めそう。本は別腹。

 

行かない世界線でも楽しいのは決まっているしどっちでも良いわという傍観者。

 

どうなることやら。

 

 

そういえば、何年かぶりにクリスマスケーキを食べようと目論んでいるのだが、ケーキって24日と25日のどちらに食べるものだっけ。我が家だとイブにアイスケーキを食べて25日の朝にはプレゼントという流れで、25日の夜には普通のご飯だったようなという記憶があり、違和感。まぁ、好きにすれば良いのだが。

 

さておき。

 

仕事。最後に残る相方が年下の上司で、ここはここで雑談が捗った。雑談のとき主観的に全く意志して言葉を発していないのだが、我ながらよくもまぁそんな言葉が出てくるなというのがある。無意識が雑談用にストックしているに違いないエピソード群。あと、職場の部下が年上ばかりだからか、なんとなくそういう啓発本を読んでいる感が滲む。いや、この人も個人的には好ましいから問題ないが。

 

体調を崩しがちな別部署の人の話題。お目にかかったことはないが聞いているだけで偏屈な人な感がある。健康の為に帰りを歩くというのは良い。ただ、食生活。昼ご飯はコンビニで買ったサラダとおにぎりはなんとなく分かる。しかし、夜ご飯が外食3店舗のローテーションだとか。カロリー高めそうな有名店。

 

外食が悪いとかは思わないが、こういう産業ってあくまで嗜好品としての食のお店であって、日常のご飯を意識しているものではない。美味しさを誰にでも安価で提供できることを追求すると、当然味は濃くなるし、その分カロリーも高くなる。サラダも栄養価より食中毒を気にして野菜用の洗剤みたいなもので洗っているだろうし、味と栄養がどこまで残っているかは定かではない。個人経営のご飯屋さんで仲良くなっていれば融通利かせてくれそうだが。

 

 

なんだか僕が通りそうだった世界線みたいな感がありちょっと細かく書いた。

 

男は料理を作るものではないみたいなやんわりした空気があった時代だし、自分でご飯を管理するというのは意識の外にある。時間がかかるとかの行動経済学的なバランスの前の話。意識に上がってこないというはなかなか根が深い。まぁ今の時代、自炊は趣味の領域にも入り込んでいる。課金すればだいたいのことはできるから行動のコストがより重い。

 

ちなみに今日の晩御飯は、もやしナムル、目玉焼き半分、スナップエンドウのマヨおかか和え、ブロッコリースプラウト、豚肉と人参ととんがりキャベツ(?)の炒め物とアルコール。

 

禁酒を長くするとアルコールが毒の味がするというのを何処かで読んだが、経口摂取する物質で毒になりえないものってないよな。なんであろうと食べ過ぎると毒になる。水すら過剰なのは駄目だったような。

 

何かを食べている、飲んでいれば健康上安心なんて万能の物質は存在しないとしている。

健康の為に運動するというのも、精神衛生上ブレーキがかかっているから、もっと運動自体を楽しんだ方が良いのではとか。

 

健康信仰は困りもの。

 

やれやれ。

 

昨日の言葉の独立性について考えていた。テキストが発信者から独立しているという概念を前提としないと世の中の言葉の扱いは成り立たない。

 

話し手と聞き手の関係の中での言葉は、たしかに人格とセットのように見えるが、ここですら齟齬を感じる人は居る訳で。僕はとうに諦めている。ここの関係では言葉は添え物のような効果しかない。挨拶とか感謝の言葉は確かに大事だが、これがなくても成立はできそう。そういう風に読み取れるように振る舞えば。

 

テキストと人物そのものが一致していないという概念がなければ僕は文章を綴れない。まずもって書いたように読まれる訳がないのが文章だから。そこを一致させようとすると、文章が無味無臭の量産物のようになるのだが、それは本当に当人が求めたものなのかというのは気になるところ。

 

話している、書いていることがらとしての現象という現実は確かにある。月が綺麗だとか、あの人は良い人だ(そういう文章あんまり見かけない)とか。ただ、この意味内容が伝わることにどれほどの意味があるのかと考えるとよく分からなくなってくる。これが自分の人格と連動しているものだから、それに対する賛同=自分に対する承認という繋がり?

 

そんなところに人は居ない気がするのが、僕の素朴。

 

こういうことを考えているのは、次に観る演劇への準備。

「あの日」と「争い」をテーマとして、現実の人物へのインタビューを構成要素にする。一般的な演劇観からすれば面白い試みなのだろうな。僕としては最初の演劇がこれだったからなんとも言えない。

 

誰にでも語れる「あの日」って、当人の中で物語としての外になっているものではとか、と思うと、既に一重の架空のような趣がある。僕の「あの日」って1つ思い付くことがあるが、誰にでもは話せない。質感が架空でないからちゃんと聞いてくれそうな人にしか無理。

 

まぁ言葉にすることで質感が薄らぐというのはあるのか。

吐き出すことで自分が軽くなれる。

 

ことばと存在について考えていくのは面白そう。

あと、感情も。

 

なんだか、ほんと軽くなった。

 

ヘーゲルさん曰く、自己意識とは欲望だということだが、この欲望って一般的な煩悩みたいな意味でない模様。捉えたいと思う衝動なのかなと翻訳してみる。

 

この自分に生まれて良かった。

 

 

他の人のことは知らないけど、人はそれぞれ向かうところがあるのだろうなと想う。

 

収拾つかなくなりそうだから強制終了。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。