弁当のメインのおかず用のシリコンカップがボロボロになったから昨日はアルミホイルで代用し、本日百均で新調。ちょうどいいサイズ。昨日のアルミホイル代用の弁当がうまそうと評されたため調子に乗って貼ってみる。
変哲もないレンチン目玉焼き。もやしナムルはレンチンして中華だし、ごま油、塩コショウ、あと、マーラージャン。マーラージャンは辛くて良き。メインは鶏モモ肉のひき肉とトマト缶とキャベツとピーマンをてきとーに調理した何某。弁当用だから粘度を付けるためにごそっとひき肉を上に小麦粉をまぶし、ひっくり返したところにもまぶして、のちにばらけさせた。味付けはレシピ化できないほど雑多。中華だし、ケチャップ、ウスターソース、めんつゆを直感的に投入しただけ。トマト缶の酸味がきいていて美味しかった。
本日のメインは豚肉とキャベツとピーマンと人参と厚揚げの味噌炒め。和風で美味しい。味付けは省略。
さておき。
二度寝前にnoteの記事を語句検索してひと攫いしたものだから、そんな感じの夢を見た。1つは高校時代の同級生が記事を綴っていて、幸せそうやなー良きなーというの。読んでいるだけでホクホクした。起きてからこの人を検索してみたが居なかった。何か書いているイメージもないから当たり前か。
もう1つはちょっと違い少し現実的な舞台。しかしよく登場してくる最も長く過ごした元恋人さん。何か僕が車窓の風景を書いている記事について、嘘だという人が居るらしくその人に対して怒ってくれていた。ほんとであることを直に話して説き伏せなさいというお達し。で、会ってみるとショートカットで泣き黒子がある美人で「イワイさん」というらしい。別に説き伏せるとかはなく雑談しながら歩いているのだが、何やら距離感が近い。それに対して元恋人さんが何か言っていて、イワイさんは、「生かさないと」とか言っていた。
当事者なのに部外者な夢。起きてから考えたとき、僕は別に自分が書いていることを嘘として読まれてもなんの問題もないなと思う。無関係の誰かが書いていることに真偽を判定しないといけないのはきっと当人の中での問題であって、僕には無関係。読み手としての僕も真偽はどうでも良い。
noteの記事群を読んだあと自分の文章を省みると、なんかへたくそだなという感じがあるということに気付く。どの記事も主旨がありそうだし、それを補強するように整然とした言葉が並んでいる。僕の文章には特に主旨がない。これが伝わったら良いという文章の核が欠けている。個人的にはだから綴れるというところがあるので問題はない。
もう少し分析。SNSごとに傾向があるのかも。noteは字のごとく記述的・記録的な傾向が高いような感じ。ネットで何かを調べた時に出てくる記事に近い。Webライター調が多いというか。
個人的に目次があれば読みやすいのかというのは微妙。体系的に書かれている論文ならともかく、目次を追ったらその文章が読めるのかというとなんか違うような。飛ばして読んで分かるような情報が書かれているのか(はてな)。律儀さと丁寧さは伝わる。
僕は基本的に雑だが改行がない文章をモニタとかスマホで見るのは目がしんどいだろうなというくらいは分かる。紙媒体で読むときには一切要らないものがインターネット世界では大事になりそうな。まぁ、情報を知りたい人は僕の文章なぞ読まない。
あと、記述とか記録上に文章を綴る衝動がほとんどない。むしろしんどい。冒頭のてきとーレシピの記述でもキーボードが重くなる。文章に残さなくても記録は自分の中にあるし、記録を読み返すというのもする気がない。
noteの語句検索で「読書」が入っている文章を読むことが多いのだが、僕が読みたいのはその人が何を読んでいるかではなく、本から個人的に何を読み取っているのか。これこそ人格であって、何冊読んだかを記録することに何か意味があるのか。いや、何かあるのだろうな、たぶん。個人的な記録の整頓みたいな。
たしかに僕は部屋を整頓するのが苦手。頭の中も特に整頓させてない。時間性も雑多だから、便宜上思い出とされる時間も今のように再現される。
ここで想うのは、やはり現実的な振る舞いと内心は連動しているということと、世界の見え方も人格によりけりというところ。
やれやれ。
凄くどうでも良い個人的毎日。
歩く時には重心の水平移動を意識する。なるべく早めに歩くことを意識しつつ、阻害する人とか現象があっても自分をイライラさせない。
話す時には相手の意図を読み取ることを意識しつつ気を抜く。自分は特に話したいことも書きたいこともないらしいが、場が許せばありそう。
料理の手順も時短と効率を意識してみる。時間が無駄になるのは、無意識にコントロールを渡しているとき。無意識は勝手に動いてくれるが効率は考えてくれない。
時間といえば、時間を早く流したいときは、時間を意識しないようにする。呼吸は普段意識されなくて、意識すると上手く息ができなくなるのと同じように、それを意識しないときのほうが勝手に流れる。意識されてしまったら、まだ仕事が4時間も残っているとするのではなく、あと4時間しかないと捉える。時間自体は無色だからどう色を付けるかは任意。
あと、文字を読むことを眼球の筋肉の運動ではないとしたら目が疲れなくなった。テキストを追うことより、テキストの意味を脳内イメージで展開することを意識する。
これって、世界の読み取りと同義だよなという感じがある。
人生がPIPEDREAMであると一致しそうでなんだか面白怖さ。
人が現象を管として通して感知するしかないとすると、味気ないように思えるが、その管に何を通すか、どう通すかは決められる。これが人の本質で良いような。
現象を通したとき、管が揺らがないような物事の方が味気ない。
今小説は4つほど並行で読んでいる。オセロー(小説枠で良いのか?)、ラモックス、酔っぱらった時才能を発揮する発明家のSF、君の話。あ、フラニーとズーイもあった。
全部楽しい。細かく書くと寝るのが遅くなるから他は省略。
君の話で、ヒロインがしている仕事について「単純に好き」というフレーズがあり、たしかに、そういう水準で捉えたら良いよなと想った。合理性を伴わず、どこにもいかない単純な好きの追求。
好きって何かというと、現象界で言うと勝手に続いていることに尽きる。
僕の文章はnoteにはあってない気もするが、趣味は越境だから問題はない。
はい、おやすみなさい。
良い夢を。