聖夜

 

 

 

話したいことはないが、話すことはある。書きたいことはないが、書くことはある。読みたいことと読むことは、どちらもある。

 

世界線が戻ってきて予定通りになった。

野ケーキ(というらしい)と赤のスパークリングワインを近所の公園でいただき、通常営業に戻ってお風呂読書をしてきた。

 

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順を追って。

 

夢の話は今日しこたま飲んで帰ってきた世界線では書く時間があっても書けなかっただろうな。

 

遅番の二度寝時は世界が明るいからタオルをアイマスク代わりにして寝ている。本日の夢は大学の講義室(たぶん芸大生のnoteの記事を読んだから)。メディア論で、何やら教授が映像を流している。その映像は大音量というか物理的に振動があって、ぐわんぐわんする。夢だと分かっていて、目を覚まそうとすると、目が開けられず、別の夢になる。そうやって、いくつかの夢を転々として、また講義室に戻る。

 

「メディアとは、自己とは何かを認識する媒介なのだ」

 

夢の中では現実で目覚めようとあくせくしていたが、現実も1つのメディアなのかもしれないと思うと、ここも1つの夢の中。

 

さておき。

 

出勤すると、上司の上司から、飲みはキャンセルでと言われた。楽しみだと思っていなければ行くとは言わなかったが、特に残念でもない。「世界線がゆらゆら動いているなぁ」と楽しむ。何かがあるという事象は、それがない事象も含まれていて。それがないとしても僕にはこうやって楽しむ時間軸がある訳で、特に上司の上司に恨みは募らない。

 

どうやら、年下上司と一緒に3人で飲むという世界線が想定されていて、彼に言ったら、「いや、クリスマスだし嫁が来ているのでないです」とフラれて、あぁクリスマスだったのかと気付いて、では僕を誘うのも良くないことなのでは、という気遣いによるらしいし、僕はそんなことで人の評価を変えない。次誘って貰ったら、はいって言うはず。

 

ただ、ちょっと危なかったのが、夜は久々の外食かぁという舌になっていたから僕の30分前に仕事が上がる1人しか居ない同期の女性を飲みに誘う衝動にかられたこと。他の人との雑談で、お酒は外で人と飲むのが良い、家では飲まない、そういう場がなくなって寂しいみたいなことを話していたし。個人的にはパートナー居るのではないかと勝手に思っている。

 

あんまり仕事が暇だったらそういう雑談に持っていきそうな節があったが、事象が阻止してくれた。仕事で雑談どころではない。

 

まぁ、仮にパートナーが居なくて、ただ飲んで話すということが在ったとしても、なにやら変な感じになるに違いなかった。昨日の刑法上の故意犯(ちょっと直した)のところと繋げて、こういう日だと認識している上で誘うという行為自体に他意があるって言われても弁明できない。実際は何もなかっただろうとしても、僕がこの人と話すことは、ストレス大丈夫かとかになりそうで、寄り添っていると思われるかもしれない。

 

危ない危ない。

 

 

何事もなく仕事が終わって会社を出ると、雨が降っていた。

これ野ケーキ無理ではと思い、あぁ、近所の公園にはトンネルがあったわと思い出す。

 

スーパーでスパークリング赤ワインを買ってケーキを物色すると大いのしかなかったから、ケーキはコンビニにした。1人用のケーキより2人用のケーキが安いのは現代日本の世界観を感じる。

 

スーパーを出ると雨は上がっていて、それほど体感上も寒くなかった。

野ケーキ日和とうきうきしながら帰ると、母親からの着信がありげんなりしつつ無視できないから通話。なかなか終わらない。

 

ケーキ買ってきてこれから1人で食べるのだと言うと、寂しくならないかという話が出てくる。いや、うきうきですわ。

 

そうして画像のシーン。ワインは思いの外甘かった。

 

はい、ここから潜ります。

 

仕事に戻ってきて、年下上司のお弁当珍しいのは奥さんが来ているからかと、繋がった。これを指摘したら、作って貰ったら食べるけどという枕言葉。リスペクトがないなぁと思ったが、家族観ってそういうものなのかなとも思う。1つ1つをいちいち感謝する必要はなく、互助を当たり前にできること。

 

今だったら、料理を作るコストを知っているから絶対こんなことを表明しないが、関係はそれぞれで良い。感謝はしろよと言われてできるものでもないし、バランスが取れていれば良い。

 

ここで、最近思っていること。

 

母親とかおばあちゃんとかと通話すると、パートナーは居ないのかってやたらと聞いてくる。ここでいうパートナーって、当人の補完みたいなこと。人はひとりでは寂しいとか、パートナーが居ることが社会という尺度における自己の完成みたいな。

 

ここには人と関係できない人は劣等という尺度がある。

 

本日立ち読みした本で、人と親しくなることを避けるのは変な意味で自己防衛だという話があった。深い関係になれないのは自己完結だとか、閉じこもっているとか。

 

ここにも人と関係できることが正常だという節がある。

 

ほんまか?

 

僕の経験値だと、人で自分の寂しさが埋まることはない。

寂しいの根源は人に承認されないとかではなく、根本で自分が自分しか居ないことだから、交友関係が増えたところで紛らわせているだけ。

 

僕は別に人と関われるし、いっぱいの人と関係があったことはあるが、余計に虚ろになった。

僕が受け入れ体質であることにかこつけて、よくもまぁ蔑ろに。

 

要は、1人で居て問題ない人と、誰かと関わっていないと自分を保てない人に優劣はなく、単にその人の性質の問題でしかないのだよな。

 

関わりも物理と精神で変わる。

 

僕は精神的に1人で生きられる人が気になっているのかもしれない。

ここには選択も特にないし。

 

外から決められない繋がりで居られるかどうか。

 

こういう文脈で自分の時系列を顧みると、世界線上ではパートナーが居ることもありそう。

ただ、決められるとそこを上限でしか生きられないという固定観念があったから今にないのはしかたない。

 

 

混線してきたからここまで。

 

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。