世界線の揺らぎ

 

 

 

ふらふら揺れ動く局地的な世界線の中、移動することではなく生活環境を調えることを選択した。環境は合わすものであって調えるものではないという盲点に焦点が当たったらしい。

 

 

 

朝起きて、どうしようかという逡巡はなかった(と思う)。なんだかぼーっとリトルナイトメア2の実況動画と不法行為法の専門書を並行で眺めつつ、あまり移動したいという衝動がないなということに気付く。演劇を観に行けば面白いに決まっているのに。

 

部屋の配置上、本に近づきすぎると自分の頭が影になってしまい読みにくいことが何故かいまさら気になる。そういえば最近近所にニトリができたのだよなと、「ニトリ 卓上ランプ」で検索。思いの外安い。おやつ時間くらいにごはんを調達がてら向かう。ニトリの製品って匿名的な感じで良いな。

 

帰り道には好奇心のエネルギーが漏れて、通ったことがない道を選んだ。なるほど、ここに繋がっているのか。進んでいれば何処かに到達できるのが道だし当たり前だが。

 

卓上ランプはかなり良い感じ。視力低下を意識して過ごしたことがないから盲点だったがかなり読みやすくなった。いつ視界がぼんやりするのだろうと中学生時に同級生の視力が落ちたのを見てからずっと気になっている。なんなら暗がりで日記を書く習慣がを身にまとって視力低下まっしぐらなはずなのだが、むしろ日に日に鮮明になっているのではないかというのは言い過ぎ。

 

酔いが回った時に視界がぼやけるのがなんとなく好きだった。ちょうど良い感じで。もうそこまでは飲んでないし、飲まなくても良い。

 

視力低下には遺伝的要因と経年があるからなんとも言えないが、そうでない場合、精神的な視界が固定されたら下がっていくのではと勝手に考えている。眼球を動かす筋力と、遠いところまで見ようとするのか近いところで留まるのか。少なくとも僕には適用されそうな仮説。視力だって世界を読む道具の1つだし。

 

 

 

続けて自己分析。

 

僕の核にある精神性って、頑固ではないがややこしいしひねくれている。天邪鬼感もあり統制が面倒くさい。意志の概念を排しているのも、人には意志がないということを一般論として思想しているまでの極論ではなく、僕が意志で動くような人格でないとした方が都合良いから。

 

ただ、意志から「何らかの報いがあること」を除けば意志のままでも良いのかもしれない。僕の昨日の記事をスキしてくれた人が書いていた、「ゲームの面白さの本質」についてのエッセイで、面白いのは分かり易いフィードバックがあるからだということが書かれていて、僕がゲームをしなくなったのは、この分かり易いフィードバックに物足りなくなったからかも。

 

僕が感じる面白さは、フィードバックとはあんまり関係してない。

「勝手に」面白くなっているだけで、返ってくることは知らん。

 

現実は確かに分かり易くない。これは現実世界のルールとか秩序とかが解明されていないことによる。複雑過ぎて処理し切れないし手応えがない(のかな)。あと、残機がないしセーブもできない。

 

僕は常識知らずだし物知らず。今でも全然。だから、その場における常識に必死にしがみついていた。我、我、これが全てみたいな(誇張)。

 

連絡は返さないといけない、返ってくるのが当たり前という概念もそう。

 

でも、場とか具体的な人の我の世界観って、あくまでそこのナカの常識でしかなく、全く真理ではない。あくまで1つのローカル文化ないし社会。子供時代はどのローカルに入るかはほぼガチャみたいなものでどうしようもないが、オトナは動ける。

 

ここでさらに。

 

今日なぜ演劇を観に行く世界線を選ばなかったのだろう。

 

世界線とか大げさに書いているが、人生の分岐みたいな意味ではなく、単にこまごました未来がどう動くのかというニュアンス。まぁ人生の分岐も結局こまごまとしたものの集積か。

 

説明としては、僕がひねくれているからに尽きる。なんだかお膳立てが過ぎてそのまま既定路線に乗るのはどうもなぁという意識がブレーキになった。今月のクレカの履歴を見たら毎月の半分くらいで、先月が使い過ぎを含めてもかなり無意識的にセーブされている。単に専門書を買っていないということだとしても、ちょうど東京大阪間を往復すると毎月の金額くらいになるところに無意識の調整が読める。いや、これに従ってええんかとなった。

 

自分は意識的に生きていると想えるのはある意味幸せなことで、ほとんどは潜在意識がコントロールしているのが真相。潜在意識はアイデンティティの基盤だから、自分を客観視しようとする意識がなければ一生見えない。

 

ともあれ。

 

好きな文章を綴る人。もう4年になるらしい。客観時間はどうでも良いのだが、この年月で自分の状況も変わったと書いていて、はて、僕はどうだろうと思う。

 

外的な状況は全然変わっていない。恋人ができたこともないし、職場も変わっていないし。

 

ただ、ナカだけが随分と変わった。

面白いとか充実感とか、漫画で泣けるとかは副次的なもので、なにせ余裕・余白ができた。

 

人生という一回しかないゲームの方がテレビゲームより自由度高い。

 

誰かが決めた価値に従う必要もないということが分かって、日常に面白みがあるし、「誰かが決めた自分」も取っ払われて、洗濯とか家事する自分がしんどいとかもない。自分の人格だとしていることのほとんどは誰かの模倣だとできている。

 

ここちょっと穿つと、しんどいことをしているのだから価値があるとしてくれよという素朴な歴史上の訴えがありそう。怨嗟というか。男は仕事をしている自分を立てて欲しいし、女は日常を支えていることに感謝が欲しいみたいな。

 

しんどいことをしているから価値があるという固定観念からは脱却していいのでは。

 

 

生きることを楽しんでいる人が人生の最初の方に1人でも居れば何か世界線がずれそうだが、あんまり気にしていない。

 

 

本を読む効用は、知識が積まれるのではなく、積むことに意味がないと分かること。

その知識は自己の人格を補強するために積まれているものであって、宇宙の全方向には向いてないし。

 

専門書も自分事として読んで良いとなって面白くなる。

 

認識できないことは意欲できない。

が、無意識(潜在意識)は意識的に認識できないことも見ている。

 

 

そう考えると、意識的な認識も感情も、自分を自分であるとするメディアの1つなのかなと思う。自分であるということの分かり易いフィードバック。

 

これを除いても別に自分ではあると思うのだが、この観念は酔狂に過ぎる。

 

 

では。

 

明日は演劇レポートになりそうな予感。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。