今日という「あの日」はもう覚えている

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見るものも見て行くところも行った。過不足なく綴られて完結した物語のようなあの日。

 

 

早めに寝たから早めに起きた。午前5時過ぎ。カルピスと水を買いに外に出る。寒空には半分こで残った側のようなお月様。ちょっと小さい方が選ばれた感。そのままいったん寝られるだけ二度寝。何回か起きたり寝たりして、9時ぐらいに諦めた。

 

どうやら新幹線は雪が原因で遅延しているらしい。ただ、そんなことでは僕の移動衝動には影響がなかった。大阪は晴れていて新大阪に向かう空は青かった。ぼーっと眺めていると、何処かのイベント(パチンコ屋かも)で、赤と黄色と青で括られた風船が大気圏に向かっている。始まりの予感。

 

時間が読めなくて読む本を買えなかった。Kindleで小説を漁っていると森見登美彦さんの「新訳 走れメロス」があったから電波が繋がらない状況に備えて先にダウンロードした。読み返し。

 

京都から名古屋の間。トンネルを越えると雪景色。窓際に座れなかったから遠目だがなかなかの豪雪だった。その中でも新幹線は徐行ながらずんずん進む。ある地点のトンネルを越えたら雪はさっぱりなくなって、ふと、地球全体の天気を俯瞰できる目があれば、1つの何処かの豪雪も、単なる気候の総体の一部として見えるのだろうなと思う。新幹線での移動はある意味、人が生身で観測できる時空を超えている。

 

名古屋に到着。車体の底に着いた雪を取り除く作業があるらしい。名古屋から東はなんだか懐かしい。夜勤明けに家に帰らずそのまま新横浜に行ったこととか、なかなか無茶しているし無茶が要求されていた。

 

名古屋から窓際に座れて、風景を眺めつつ富士山が見られるのはこっち側だっけとそわそわしつつ、うとうとする。寝落ちしたタイミングで足に衝撃が走った。ピンク色のキャリーケースが転がってきたらしい。どうやら通路の反対側に座っている女性の持ち物。相手も寝ているし、こういうのってストッパーかけるのではとか思ったが、しれっと相手の側に転がしておく。

 

こんなことをしている最中がまさに富士山のシーンで、今まで見た中で一番はっきりくっきりした完璧な姿だった。頂上付近にはもちろん雪がかかっている。これだけで移動した価値はあったと言える。撮れば良かったが、キャリーケース騒動でそれどころでなかった。ふと相手の目が覚めたらもしかしたら、窃盗犯扱いになってしまうかもしれんとか。

 

品川に12時過ぎに到着。30分くらいだから14時の開演には十分間に合う。と、ここで、当日券予約しておけば良かったのではという発想がやってきた。別に観られなかったらそれはそれで美味しいというか、次東京に行ったら行く所はあって問題はないにしろ、発想が遅すぎた。

 

まぁ、上手いこと観られたし行くところも行った。

早めに着き過ぎて街並みを散歩していたら、シャボン玉がふよふよしていて、にやっとしていたら、生産者である4階くらいのベランダに居る幼女に見つかる。なんとなく共犯者めいた笑みを交わして退散。

 

そうして、やっと劇評ちっくなところに入る。

 

「GOOD WAR」

2回目。

 

「あの日」と「争い」をテーマにしているのだが、個人的には原型が留まっていないもっと根本的な時間の劇なのかなと読めた。そうして遊び心が満載。通常の演劇が役柄を確立させてその心情を読むという閉じられたものだとすれば、こちらは完全に開いていている。勝手に観たいように観るしかない。

 

舞台は古代ギリシャの公共空間としての広場の名を冠したところで、広場というにはちょっと狭い。が、この狭さが逆に良い。モニュメント的な小道具がいくつか置かれているのだが、見回すと客席の後方にも置かれている。観客も舞台の中に居るということか。

 

舞台側には双三角錐三角錐を底面でくっつけたダイヤモンドみたいな形、調べた)の手に取れそうな骨組みが2つぶら下がっている(よく見ると微妙に動いていて気になる)。演出家がもうちょっとで始まりますって挨拶をしつつ(時計を確認しておそらく計算の上)、片方の骨組みに火をつける。

 

「ザ・ワールド、時は動きだす」(知らない人は知らないジョジョネタ)みたいな感。

時間が止まれば世界は完全な調和のままだが、時間が動くということは、調和が破壊されるということ。下に鉄製(?)の受け皿が置いてあり、部品が焼け落ちる時に「コトン、コトン」と音を鳴らす。時計のチクタク感。演劇は始まってないのにもう始まっている。発生する煙に焦点を絞った照明も良い。否応ない未来への時間の動き。

 

そうして、演劇も始まる。

「カムオン」という単語が連呼される。これを儀式と評していた文を見かけたが、たしかにその感もある。言葉の反復ってたぶん時空を超えるスイッチなのだろう。カとムオンが離れて発話されたとき、何故か「加、無音」と漢字が当てられた。

 

ただ、僕としては、演劇の上演がなされている未来への時間の流れと、カムオンの連呼によって呼ばれる過去によって時間軸が混線しているように感じた。ここから捉えると「あの日」は呼び出されない限りカタチとして調和が保たれているのに、呼び出されてしまうと、当人の時間軸の調和が感情によって乱れるというもう1つの意味。

 

最初に書いたように、登場人物に人格が当てられる劇ではないということが、この前見た犀の演劇との比較で分かり、テキスト個々で読み取ろうとすることに意味はなくて、もっと全体というか総体として捉える自分が居た。

 

テキストに込められた感情は残滓でしかない。本人が語るのであれば幽霊が語るものだから魂は宿っているのかもしれないが、語られる台詞によって喚起される感情はそれを読んだ僕の感情でしかなく。だって、テキスト化された感情って解釈されたものだし。

 

よくよく見ていると、感情はテキストではなく演者の視線に宿っているような感じ。

僕は演劇論にも文芸論にも素人のただの一般人なのだが、目は口ほどに物を言うというのは、役柄にも適用されるのではという素人見解。役者論も知らないのだが、演じている時って、観客のまなざしは見えている訳で、そのまなざしに視線を合わすことってあるのだろうか。マーカーとしてはありそうという想像。

 

いや、演者さんが完全に僕に目を合わせてないかというシーンがあって。

渡邊さんがちょうど、「殺す」というような台詞を述べている時で、視線から流れてくる感情であぁ、僕殺されるわと感じた。

 

という感じで、視線を観るようにするとなかなか面白い。

ついでに、観客の人の視線も眺める。頭の向きでなんとなく分かる。諸江さんが身を乗り出して見ている先にもなにがしかのパネルがあった。今回は伊奈さんが幽霊役だったのか。ありあまる富の歌声好き。

 

全体として捉えたとき、個々の「あの日」自体に意味はなくて、人々全体に蓄積された過去の時間の総体を表現したいのではという漠然とした感じが起こる。時間に付着した感情も含め。

 

ある意味、「あの日」の再起は今との争いみたいなところがある。

「いま」と「過去」ないし「未来」の自分同士の「争い」。

 

僕はもうここは和解している。

 

今日観られて良かった。

ただ、この演劇はこれだけ取り上げて書くようなものではなく、あくまで読み手の時間軸と連動して捉えるものなので、日記調にしかできない。

 

演劇を堪能した後でも物語は続く。

 

今度東京に来たら行きたかったところは、アニメの「言の葉の庭」の舞台になった新宿御苑。閉園間近に間に合って、先生の足を採寸したベンチ(僕はメガネフェチでもあり脚フェチでもある)と雨が降っている池とか橋とかを見てきた。滞在時間20分くらい。

 

ゆっくり見なくても残るから問題ない。

 

帰りの新幹線は1時間ほど座れなかったが、全然疲れてない。

そうして帰ってきて、通常営業でお弁当のおかずを作る。もやしナムルと、すき焼きみたいなやつ(表現が雑い)。

 

お風呂読書の最後の小説も読み終えた。これも「あの日」の記憶の話でちょうど良いんだよな。記憶を設定できるようになった技術がある世界線で、孤独な2人が虚構の物語のなかで一瞬だけ出逢う。

 

一般的な現実の指標として、「運命の人」なぞ居ないというモノサシがある。

僕も、一生を通じて運命的に出逢う人は居ないだろうとは思う。人の精神は動くから。

 

ただ、都度、縁がある人は居る。縁を縁として捉えられるかは精神衛生の状態による。

誰もが自分の物語を生きられると良い。

 

僕が物語は読むけど自分の中で虚構の物語を欲さないのは、生きていることを物語として読めるから。物語は物語として読むだけで、そこに救いを求めていない。

 

救いは許容でも庇護でもなく見守りなのだよな。

 

はい、では、また明日。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。