具体的な人

 

 

感情は目に宿るというのに、自分だけがその視線から仲間外れ。

誰かに見てもらうしかない。

 

 

 

今年の仕事はおしまい。なんだかすごく楽しんでいた。

良いことあったのか? ないと思う。いや、どうなのだろう。誰かが生きていることは良いこと。

 

 

デカルト曰く、考えるとは「疑い、肯定し、意志し、意志せず、、、」という事態、要は現象そのものをいうとのこと。この意味であれば寝ている時も含め人間は一生考えているといえる。考えていると意識されている瞬間だけではなく、生きることそのものが「考える」の中に在る。

 

尺度について考える。わざわざ一般論とか社会常識の尺度を持ってきて測るのが面倒になってきている。ただ、そもそもどこから来ているものなのだというところに視点が向かう。

 

普通の人が存在しないように、一般論も社会常識も正確なものは存在しない。現実的な経験的法則に言い換えてみたところで、真理はなりえず単なる、具体的なデータの集積みたいな意味合いしかない。もちろん最低限のその場のルールという意味での知見はある。赤信号渡ると危ないという法律的経験則とか、台風の時に畑を見に行ってはいけないという自然法則とか。

 

ただ、人が一般論とするところ、いや、僕が一般論とするところには、現実で仕入れた具体的な誰かの基準を学習して従ったり反面教師にしたりしたブレンドでしかない。これは自分がどういう人物であるか、あるべきかという一般的自己観も入る。

 

人の尺度がこういった環境の現れだとすると完全に一致した尺度を持つ人は存在しない。これは当たり前として共有されているはずだが、それでも自分の尺度の方が正しいと想えるのはどこから来ているのかは気になる。想像するに、あくまで自分の人生劇場の中で他人を見ているからというところなのではという感じ。

 

この一般論とできる尺度は確かに有用ではありうる。だって、生を継続できている具体的な他人の成功体験の蓄積だし、自分に対してもそう。無意識は継続していることを当たり前とみなして大丈夫なら更新しようとしないから、何かを評価する上で省エネ。

 

今の時代でも歩き煙草をできる人はそれで痛い目を見たり想像できなかったりする訳だが、これも1つの一般論。

 

あくまで僕の話だが、僕が想う一般論とか社会常識の尺度は持ち合わせてなくて、この尺度は「何かしない、しなくても良い」という言い訳の文脈で顕われてきて鬱陶しかった。内部的に現状を維持しようとするホメオスタシス

 

一般論が具体的な誰かとか何かから来ているものでしかない、外から来ているだけのものだったら、それに従ういわれはないということに気付く。自分が何かをできないことについて、人はこういう存在だからと言い訳をするのは無意識の人生が終わるまで意識を飛ばせば幸せだという陰謀に乗っかって拘束されたまま落下することでしかない。

 

尺度、ものさしはもともとあるのではなくて、意志で決めるべきもの。

村上春樹さんが「ノルウェイの森」の冒頭で作家とは自分のものさしで測るものだみたいなことを書いていたのがなんとなく分かった。

 

ものさしが違うのが当たり前なのだからそもそも相容れないのも当たり前。

 

外にある尺度を自明として僕を巻き込んでこようとする人が苦手だったのはこういうことだったのかという言語化

 

 

この流れで、贈り物の話。

 

僕は贈られるという行為が割と苦手というか、その格式は贈り手のアドバンテージの為というひねくれた尺度がある。

 

実家からの荷物の受け取り。米とか餅とか送られて、仕事のシフト上受け取りにラグがあった。贈り手に申し訳ないことだが、僕は自活しているからこれが無くても別にご飯に不自由することはない。無くても良いよって言えないのは、「送ってやっている感」を壊すのもどうかなぁと思うから。

 

これも一種の社会的尺度。法的には贈与契約で、財物を送ることに価値があるということが前提になっている。餅を食べ過ぎて胃もたれすることまでは考慮されていない。

 

生命維持の為に、食料が供給不足だった時代の名残と思うが、食べ物送られても持て余すかもしれないという想像がない。

 

ここに感謝するってなかなか難しい。

ポーズとしては言語化できるし、おばあちゃん印の梅干しとらっきょうの甘酢漬けは美味しいから感謝できる。おばあちゃんに連絡すると嫁は嫁はと言われるのは通話することについてブレーキになる。

 

誰かダミーでパートナーになってくれないかな。

結婚は法的拘束になる(この効力何があっても使わないが)から、ダミーの恋人でも良い。

見返りは特にできないが、ちゃんと貴方を読む。もしくはご飯くらいなら作れます。

 

人は生きて居ればいずれパートナーと結合するという観念も自明ではない。

人間が大人になれば云々もあくまで外から来ているもの。

 

贈与には変な拘束力がある。

 

贈って問題ないのは、返信不要のお手紙か、読んだというしるしすら付けなくて良い文章。

 

そういえば。

 

次に日記を書かない日っていつになるのだろう。

 

上司の上司が昨日、煩わせた埋め合わせに年明けに肉でも食おうとか言っていたが、どうなるのだろう。年が明けたら忘れられている可能性がある。それはそれで良い。

 

もう1つありそうなのが、断って良いですよって言ってもなんの返答もないきっとないだろうなという場。(あったとしたらと、色々想像は巡らせているが、主に事務的なところで)

 

何が何でも書かねばとしてないし、「時間がない」なんてこともない。

 

時間があればと空想している現実軸は、きっと時間があってもしない。

ほんとにしたいことであれば、主観的な時間がなくても捻出するはず。

 

 

こういう意味で見れば、僕は言葉を綴りたい人ではあるのだが、贈与という観念はない。

 

贈与の観念があるのであれば、スキとか読者の数とかが問題になってくる。エネルギーを使った甲斐を求める。

 

個人的にはそんなこと知ったことではない。

読んでくれる具体的な1人が居れば書けるくらいな感じ。

 

そんなことにエネルギー遣ってない。

 

まぁ、一般ウケはしない文章だとは自覚している。

人に読まれるカタチで、自分を掘り返しているだけ。

 

最後に凄くどうでも良い話。

 

自分の感じに馴染んできている。何も覚えてない。

明確に言語化できるような記録が自分にある訳ではなく、あくまで感じでしかない。

 

言語化が面倒になってきたのでここまで。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。