ただの連休気分でぜんぜん忙しくない。ありあまる富(時間)。
きちんと夜寝て朝起きて髭も剃ろう。
さておき。
自分の悪癖について。
プライベートで人と話すことがないから忘れていたが、ふと何か話すことを思い付いて、冒頭を話し出したあと、すぐにブレーキがかかる。これは話すべきことではないとか、きっとつまらないとか。結局言語化されるのは「やっぱなんでもない」。取り逃がした言葉は続きを聞かれても戻ってくることはなく、心象悪いだろうなという感。
人と接するとき、無防備というかリラックスをしている風ではあるのだが、心理的安全を抱いたことがないかもしれない。何を話しても聞いてくれることはないし、下手すると相手の地雷を踏んでしまうかもしれない。雑談において自分のことを話すのは後者の意味で予防線というか無難な手法なのかも。だから僕は人とあまり会話ができなかった。
今はどうなのだろうな。無意識的な枷は随分と外れてきているような感じはあるが。
話したいことは無いが、話すことは有る。
もう1つというか、こちらの方がメイン。
朝起きると母親から伝言メモが入っていた。
「おばあちゃんにも電話しときなさい」
めちゃくちゃ心が重くなる。命令に対する抵抗感は誰にでもあるはず。しようとしていることに対して先にしなさいと言われたらやる気が失せるやつ。ただ、僕は学校の宿題も(いやいやながら)やっていたし、仕事の指示にも理不尽であろうが特に抵抗がない。
こんなところで法律学が役に立つとは思わなかったが、命令の前提には命令することができるという関係がある。学校の宿題は教育権に基づくもので、これはどちらかというと子供の権利。教育を受けさせる権利を現実化させるという枠内で、学校という組織には命令する権限が与えられている。学習指導要領読んだことないが、宿題についても書かれているのだろうか。義務教育も大学もあんまり変わらない。大学は研究機関だが、学生はそこから自発的に知見を吸収しに行くのだし。
仕事の指示も、労働契約ないし就業規則に基づくものであって、労務を提供するという法的な約束を交わしたのは当人の意志であって、外からの根拠がない理不尽な訳ではない。
こういうのはシンプルだから良い。学校時代に分かって居ればもっと大学も活用していたと思うが、人生全体が学校みたいなものだし。
では、家族はどうだろう。
未成年のうちは、監護権(これも子供を保護する義務が親にあるのであって、保護される権利は子供にある)の枠内で命令をする権限がある。これもあくまで安全とか教育の範囲であって、それ以上の統制はできないように思うが。
では、「電話しなさい」という命令の根拠は。
という感じで、人間的な扱いをしていない命令がなんとも嫌だったのだと思った。子供はナチュルに自分の言うことを聞くものだ、これは自分が親としての義務を果たした上での当然の権利だ、みたいな。友達の家に遊びに行こうとするとき、母親の機嫌を伺って今日は大丈夫そうだ、あぁ駄目っぽいなとか想っていたのを思い出す。
理由として語られる言葉が時々で変わって、「よそはよそ、うちはうち」というご都合主義。
これは昨日書いていた贈り物に付着する「感謝しろ」という不文の命令律と繋がる。
当たり前に馴染める人であれば気付かないのだろうが、個人的には健全ではないと考えている。
人は対等に関わっている限り相手に命令をする立場にない。
もちろん、自分自身に対しても。僕は自分に義務を課さないようにしたことで、意識と行動にタイムラグが無くなってきている。(あぁ、受かってしまうな)
いや、結局おばあちゃんには電話した。世界文化史で誰かの格言、「上機嫌は人の最上の装飾品」に倣い、通話で伝わる声は元気っぽく。嫁の話が出て来なくて良かったが、仕事で生活できるくらいは稼げているのかと聞かれて、なるほど、彼女にとって嫁と仕事は同列っぽいなと感じる。僕の声を聞けて嬉しいと言ってくれるのは嬉しくなるが、仕事で話しているお客さんが僕を指名して良いですかと嬉しそうに言うのとパラレルを感じる邪心。
要は、社会準則として行動とか感情を既定されるのがよろしくないだけであって、そんなことを決められなくても僕は世界に感謝している。この結合が内輪だけなんてあえて無意識が狭めているとしかならない。
あぁそうだ、もう1つ。
電話しているとき、ながらく帰って来ないと「顔を忘れるぞ」と言われた。
どういう文脈なのだろう。
人から忘れられることを恐怖に感じる一般論は分かる。
この観念を最初に読んだのは、「ノルウェイの森」の直子が自殺する前に、ワタナベに「私のことを覚えていてね」って呪いをかけるところ。
現実の人生で言うと、最も長く過ごした恋人さんと一度別れて、3年後くらいに再会したとき、長文のお手紙を送ったことに対して「まだ私のこと覚えているのだと不思議になった」という発言。
ここがずっと違和感だった。
そういうものなのかとしていたが、僕は僕の尺度で生きることにして言語化できるようになった。
前提に、「覚えている間だけ存在している」という観念がある。ワーキングメモリの問題なのか、「実生活」という脳縛りプレイなのか知らないけど、なんか変。
だって、人の存在って誰かに忘れられたとこで何かが毀損されるものではなくないか。
自分の記憶も忘れ行くと認識されているのかもしれないが、記憶情報ってそもそもなんだろう。言語として再現できることなのか、当人の主観の中で映像として再現できること、食感、味覚、はて。
僕は人の中に自分が記憶として残ることに価値を置いてないから、さっさと忘れて貰って良い。人の記憶に残ることに意味はない。むしろ、自分のナカに残る人の方が大事。現実の人生で関わって何も刻印してない人でも過去を照らしているし、SNSで関わった人も然りで等価。皆元気だったら良いし、元気でなくても良い。
生きていれば良いと祈るが、これも越境でしかない。
思い付いた。
現実的に因果関係がない人は人ではないというモノサシもありそう。
自分の現実的振る舞いが影響する人の範囲が人であって、亡くなってしまえば人ではなくなる。
この尺度は確かに分かり易いけど、自分の世界を形作った他人には生者も死者も含まれている訳で、縛りプレイ感がある。そもそも自分が自分である初期のインストールは、その時の他人の感覚できている。比率は95%らしい。
ここの縛りを外すと、自分が自分であって良いとしてくれた人に恩を感じるし、意味がある人だけ覚えている訳でもない。人に対する印象はあくまで自分事。
進んで行くと、なんで僕を忘れないのだろうという人が気になる。
なんの現実的因果もないし、影響もないのになぜ僕の存在を認識しているのか。
思考実験として、ふと明日から何もインターネット世界で更新しなくなった三年後の世界。
僕のことを覚えているような人はいくらか居るような気がする。
(そういう人と飲みたい)
これの方が単に現実世界の義務的世界観の人より希少。
GREEに置き忘れた人が居る気もするが、これもともかく。
覚えているかどうかって、意識にイメージが上ってくるかどうかで決められていると思う。
でも、意識できることは無意識が蓄積した氷山の一角でしかなく、無意識は全部覚えている。
僕の心理的安全は、誰にどう思われてもどうでも良い自分を赦したことにある。
はい、ここまで。
良い夢を。
おやすみなさい。