せっせの瀬

 

 

仕事初めの起床時間より早く起きて歯磨き、洗顔、髭剃り。

朝ごはんは温うどんと梅干し味付け海苔ご飯。昼ご飯はキャベツとパプリカのたまご丼。

 

 

この辺りに買い出しに出かけた。主観的にはただの連休なのだが時節には乗ってあげても良い。クリスマスに野ケーキをした流れで、年末年始も乗り気になっている。魚を肴にすることに飽きたため肉にしようかとゾーンに行くと、年末年始仕様でめちゃ高い。スーパーに5000円の焼肉用の肉とかなかなか。鍋用の鶏もも肉とつみれのセットのお手頃価格(半額シール)があった。

 

今晩は鍋にして(今ここ)、この出汁を年越しそばに流用し、さらに朝ごはんの雑煮にも使おうという一石三鳥の目論見。鍋は昆布茶とほんだしかつお)のブレンド出汁で、具はもやし、ネギ、焼き豆腐、白菜、えのき、しめじ。おろしポン酢でいただく。優しくて美味しい。付け合わせはなかなかなくならないすぐきと、らっきょうの甘酢漬け。

 

スーパーの帰り、雪がちらほらしていてとてもいい気分。

どうしよう、全然惜しくない。なんにも終わってないし。

 

初詣は近所の好きな神社に行くかどうか。小さいところだが空気が良い。

 

 

さておき。

 

日中どれだけ頭が働いたかが、ここの文章を決めているような感じ。

仕事日よりも働いた。

 

そういえば、昨日の命令系統の話。自分に命令できるという関係もありうると思う。意識とか意志を至上として、体の動きはこれらによって動かされるものとする主従関係。こちらの説を導入している人の方が多いのでは。だからご褒美の観念がある。でも、そもそも意識とか意志の方がからだ全体からすると下位にあるような気もする。

 

ここは後で。

 

(つみれが思いの外重たい)

 

面白い漫画があった。

 

都会の真夜中という異界と吸血鬼が存在する世界観で、吸血鬼になりたい人間である恋を知らない主人公。吸血鬼になるためには吸血鬼に恋した状態で血を吸われないといけない。ところどころえっちぃのも良いとして、「人は1日に満足するとよく眠れる」というフレーズがなんとも。僕も結構不眠傾向だったのだがいつの間にかさっぱりしている。

 

「満足する死とは?」 

「泥なんてなんだい!」

 

これは別の漫画。

 

もう1つ「チ。」

アプリで1巻が試し読みできたのだが、凄かった。冒頭に爪を剥がすシーン(痛い)。

異端審問。天動説から地動説への変遷が語られている模様。一般と違う世界観を提唱するだけで社会的にはなく物理的に排斥されるのも過酷。ただ、やっていることは今とあまり変わらないような気もする。

 

神様が存在するからこそ世界はシンプルに美しく観測できるものだという知性と比べると信仰は濁って見える。僕は宗教に忌避感を抱いてはいないから、これはこれで合理性があったのだろうなとは思っている。ただ、異端だからといってヒトデナイとするのはやりすぎ。

 

個人的な時間の使い方で、高校時代の教科をやり直している。国語は日常として、英語、数学、歴史学、物理学、科学、統計学とか行動経済学はまた別か。高校時代には世界史を取ったのだが、全然面白くなかった。ただ、これは当時の僕に歴史という概念がなく、ただの単語の羅列にしかなかったことによる。

 

まぁやっと、時間についてちょっと分かったところだし、仕方ない。古典が読めるようになってきたのもこの辺りで、自分の主観とは別に時間軸があるという感じ。

 

日本史も読んでいて、今は中世史。そういえば平家物語もこの時代か。中世史の研究資料は文書が重要だという記述の中に、徒然草が出てきたのは良かった。でもなく、日記という文書も重要だという話。時代の流れが読み取れる。

 

だとすると、一般の人が氾濫しているこの時代に日記を読み漁ることは情報とか共通項とは別に、今の時代の流れをリアルタイムで資料にできるということでもあるのだなと、勝手にほくほくした。

 

一定の傾向としては当人のことを語れるのに自分のことを語る人が多すぎることにより、逆に個人の存在が曖昧になってなんだか寂しそう。ここが承認に係っているのでは。だから抽象的な数を問題にする。

 

満足していないことを原動力にして書いているみたい。

 

これは僕もそうではないのかと常々疑問だったのだが、別にそんなことはなかった。僕が書いているのは、あくまで自分のエクササイズの為であり誰かに承認されたい訳ではない。でも、僕のことを忘れないかもしれない人って、僕の文章に対して僕の知らない価値をおける人なのではないかという若干の脇道的発想。

 

僕の文章を読み続けたいという意志は別に下心でもなんでもないが、まぁ蓼食う虫も、なのか。いやいや。ただ、これを認めた方がシンプルになる。別に具体的な人間としてへの興味ではないという意味で。

 

 

やれやれ。

 

意志がからだ全体より下位にあるという話。

 

意志は長期的な目的への動きの統制であるのが一般語用な感じだが、短期的な選択も同じように解釈されているように思う。

 

法律学にも意思が良く出てくる。社会的な尺度を問題としているから、ある行動について、これこれを認識してやったのであれば、社会的な準則としての評価を受けてもしかるべくみたいなことで、何かをしようと思った純粋な内部にある意識は問題になっていない。

 

 

自分が意識によって統合されているという自己観は、ある意味天動説みたいだ。

 

自分の無意識的な行動も、自律神経が行っている内部の体の動きも意識できないのに、自分が自分であることは自明になっている。これは一種の宗教とも言えなくもない。

 

今日読んでいた本で、意識とは、高度に統合されて文化された情報だという説があった。フェラーリを見たときに「赤い」とか「車」だとか意識されるが、赤は科学的に言えば光の波長であって、同じ「赤」でも色調は無数にあるのに、「赤い」に集約できるのは、脳が情報をカットして、意識として統合しているからだとのこと。

 

外界の情報をフィルターかけて分かり易くしたのが意識だとするって、かなり分かりみ。

世界の細部が気にならないように脳がお膳立てしてくれているから、自分の世界が現実だとできる。

 

ここからすると、自分が自分であるという統合も同じ文脈な気がしてくる。

僕はこの意識をフィクションとしているのだが、別にそうしたところで、むしろそうした方が自身に対する不安がなくなった。

 

(年越しそば食べられる胃のコンディションではない)

 

自分が自分であるという統制は経年でズレるし、全盛期だったらとかでご都合主義。

そんなことより外を見れば良いし、自己観を放棄しても自分の存在は揺らがない。むしろ鮮明になる。自分ルールなぞ排して良い。義務化しなくても放っておけば自分になる。

 

自分に操作性がないと思うのは、あんまり一致してないのではという感じ。

 

さてさて、次は何をしようかという相談できる仲良し。

 

 

意識的に生きることって、蓄積された自己観に固着することではない。

買い物に行くとき幼児の無軌道な動きを見て、こっちの方が意識的に生きているなと思った。意識は経験則の軌道を観測しつつ、その外に動ける可能性の中に在る。ルーティーンで生きればそりゃあ体感時間は早くなるしかない。

 

落下中に気絶しているのと一緒。

 

そろそろ、年が明ける。

 

(そばは昼ご飯にしよう)

 

人は記録をどれくらい自分のナカに残しているのだろうというのが気になる。

 

今日は前後編にしようかな。

後編は短めになるだろうが。

 

 

良いお年を。

 

(これが書きたかっただけ)