最初

 

 

 

ビールだけでは二日酔いにならないにしろ、酔いどれ過ぎた。文章が破綻する前に寝られたから、まだ。

 

酔いと宵が深くなると破滅的衝動で人とさよならしたくなりがちだった。貴方にとって僕は要らないよねって。これを構ってちゃんと評されたこともあったが、ほんとに他意はない。必要とされたいとか大事にされたいのではないのだが、たぶん伝わらないと思う。価値の話ではなく時間の話だし。

 

最近になって少し意味合いが変わり、今酔いつぶれると世界に対する肯定が漏れてキモイだろうなと想像する。縁そのものが楽しいのだもの。

 

返信不要のお手紙の方で若干やらかした感はある。

だって、かわいi

 

さておき。

 

元日なのか元旦なのかは知らないが、それっぽいことをした一日。

 

少々胃もたれの朝に蕎麦(遅い)を食べ、昼にはお雑煮。手作りお餅が美味い(重たい)。実家の地方に倣いすまし汁の味付け。まだもりもり残っているから明日は味噌汁な感じにしてみようかな。正月のうちに食べきらせるつもりがない量。

 

漫画やら本やら読みつつごろごろ寝正月を過ごし、夕方に初詣。何気に人が居たためさっさとお参りをする。やっぱりこの敷地、空気が気持ちいい。御神木とかではなく肌に合う感じ。前回(前々回?)の橿原神宮も壮大で良かった。どちらも好き。

 

願い事ばかりされて神様も胸やけしてそうだから、箸休めに「今年も楽しむので見守ってくだされ」と念じておいた。神様に願うという他人事にしてまで達成したいものがない。達成したいことは自分事としてやりますわ。

 

まぁ、お願い事って神様を媒介にして当人の意識に可視化させる儀式なのかも。認識することによって外化が変わるみたいな。

 

新年の抱負も同じ流れなのか。抱えて負うなんて重たいことはしたくないところ。1人でできることは別にあえて掲げなくても本当にしたければするだろうし、1人でできないことであればそれは相手次第だし。

 

こういう意味で、僕は自分を信頼しているとも言えるし、どうせ命令しても聞かないということを諦めているとも言える。抑圧すると何かしら反発があるのが宇宙の法則で、僕が自分を蔑ろにした反発は、世界が曇りガラスを通してしか観測できないことだった。

 

 

今読んでいる本の中に「脳の中の幽霊」というのがある。

脳が物理的に損傷した人の中には「神の啓示」を受けたと感じる人が居て、日常の些細なことにも宇宙的な壮大さを感じ、「日常の細々したところを記録する」←

 

僕、大丈夫か? と思ったが、そういう人は独りよがりであるという記述があり、僕には当てはまらないなとちょっと安心。別に宗教めいた体験をしたからこうなっている訳でもないし、日々何も分かってないなという方向に流れている。分かってないから楽しい。

 

この本の面白いところは、脳科学的なアプローチから人の認知がフィクションめいていることを書いているところ。まぁフィクションだとして、だからどうなのだという話だが。どう理屈付けても、意識の現実性からは脱却できないし。

 

法律書は、不当利得と不法行為と刑法の責任論と、明日は家族法を一日で読み切れば良き。婚姻意思って結局なんのだというのにも論争があるの、素朴に面白い。誰と性交渉をするのかは個人の自己決定権の範疇にあるのに、婚姻にはパッケージとしてこの決定権を制限する効果があるのってよくよく考えると不思議だ。いや、一般論としては分かる。

 

ちょっとこのまま下世話な方向へ。

 

「AIは人を傷つけない」だっけ、AIが人間を滅ぼすかどうかを考える本。ここに「合理主義者」という集団が出てくる。既存の枠内の規範から離れて合理的に物事を考えるというのは所々分かる。例えば寄付金を投じるとき、どの団体に投げるのが良いかはその団体がどれだけの人を救っているかを見るようにしてすべきとか。

 

おそらく欧米の話で、この集団は「セックスカルト」と評されている面もあるらしい。複数のパートナーを持って、多数の人と並行的に結合関係を持っているとか。たしかにパートナー関係が1対1であるべきという観念は道徳的な意味しかなく、子孫を増やすという生物学上の合理性から捉えたら、こういった多数恋愛主義はありうる。多様性()も保たれるだろうし。

 

ちょっと歴史で想うのは、一対一での家族観は家制度ありきだったはず。平家物語では政略として皇族に嫁がせるという女性を政治の道具として扱うところがあったが、そのときの庶民のパートナー関係ってどうだったのだろうなということが気になるところ。ある時点ではパートナーは1人だが、人生で考えると複数だったとすれば今とそんなに変わらない。

 

僕も性欲は普通に持ち合わせているが、男友達()が語る「やってしまった」エピソードに対して、そんなことないだろう、性欲の制御ができないってあるのかと冷めた目で見ていた。

 

だって、まぐわいってプロセスであって、経過の中で我に返らない瞬間がないはずがない。

いちゃいちゃ、ちゅっちゅに没頭したとしても、次の段階になるには意志があるはず。避妊具付ける時に意志がないとかない。

 

こういう意味で、多数恋愛主義者に対してはよくもそんな面倒なことができるものだという評価になる。ほんとに相手と関わっているのかって。ただ、自己決定論からすると、こういうのも肉体を媒介にした一種の疎通でしかないという価値観はありうる。

 

僕にとっては、こういうのは面倒なことであって、面倒なことをあえてしたいと思うのが恋愛感情なのではとしている。性欲の発散の方法なら他にもあるし、業者さんも居る。全然知らない人と肌を重ねるとかよく分からないのだが、この知らないも程度問題か。

 

好きな人とだけしたいというのは女性性な感があるが、女性性は求められることが前提にありそうだからちょっと違う。これは別に綺麗なことでもないし。

 

結局のところ、パートナーは1人で充分となって、現代の結婚観と結果的に一致するが、婚姻関係というパッケージを求めている訳でもない。

 

こういう非公然性も、まぁ良いか。

 

 

前置きがだいぶ長くなってしまった。

 

ご都合主義的共時性

これが人生の醍醐味だと思う。

 

最新の科学の本と、「デミアン」で書かれている意識の解釈がよく似ている。アプローチが違っても同じところに辿りつくところに人間の凄さを感じる。鳥肌。

 

この共時性は僕にしか味わえないというという意味で僕は独立している。

 

曰く、人は自分の意識について自由だとしているが、科学的アプローチだと人の動きの結果は粒子の振る舞いでしかないし、「デミアン」のアプローチだと宗教観の檻の範疇。

 

ただ、人が自由なのは結果ではなくどう振る舞うかについての可能性にある。デミアンの方でも、自分がこうできるという可能性を意志することで自分が変わるという話があった。そういえば、返信不要のお手紙の中で、僕は可能性的世界で生きていると書いたことがあったような。

 

結果から逆算する意志に自由はないが、結果までにどう振る舞うかの応答の可能性は他の物理法則に従っている物質(石とか)よりバリエーションがあるという意味で自由過ぎる。

 

世界に対してリアクションではなくアクションできる。

 

(自分が挨拶好きなのはこういうことか)

 

あと、ここで想ったというか影響されたのは、人の意識に存在する自他。

 

アクションを変化させない人とか、リアクションだけを問題にする人は、僕を存在として捉えてはいないのだが、それとは別に、他人の中に存在している自分も大事にして良いかなと思ってきた。

 

もしかしたら、GREE別れしたあの人は僕のことを好いていたのかもしれなくて、かまってちゃんと評価されたこととは別にもっと関係しても良かったかなと思いつつ、お別れは必然だったとも思う。

 

僕は自分の存在を現実的な絶対的なものとはしていないから、他人の中にある自分に準拠する精神性があった。社会人類学で言うところの、範疇で仕分けされることで情緒的に安心できるという話。

 

この仕分けは当人がやっているものではない。

 

この仕分けの安心は、自分にも適用されて、どれだけ当人が苦しくても区分けの安心の方が重い。自分は苦しく生きていることがアイデンティティになっている。

 

そういう人生観における人って、自分にとって有用になる。

それってあんまり楽しくないよなぁ。

 

有用だから感謝するのは不自由で、縁に感謝すれば良いと思う。

 

 

おしまい。

 

良い一年でありますように。

 

 

おやすみなさい。