感覚質

 

 

 

 

相変わらずの一日。相続まで読み切るつもりが半分までしかこなせず。300頁くらい。ぐあんぐあんしてくる。情報が氾濫してくるとはちと違う感じなのだが、なんなのだろうな。

 

近場のスーパーは空いてないからコンビニでメインとサラダを調達。鯖の水煮缶にして、食材の整理を兼ねて煮物にした。日常のご飯だわ。明日スーパーに行ってくわいが安かったら煮付けにする。

 

さておき。

 

本を読むというか、言葉を読むことについて考える。文字としての記号を脳内でイメージとして変換する感じって何かと似ているなと思ったら、ずっと前に脳科学者の茂木さんの新書で読んだクオリアに近い。

 

読書をどのように捉えるかは、おおざっぱにいくつかに分けられそう。今年は何冊読むという抱負を掲げたり、書評をコンテンツにしたりするクラスタは、読書を行為として捉えているような感じ。運動か。

 

確かに毎日してないと勘が鈍るというはある(本を読まない日が何年前にあったのか覚えてないが)。ただ、こういった日常のエクササイズとして言葉を読むことって、何か発展があるのだろうかという気もしないでもない。反対派の人はこういう人は引用で語っていて、自分で考えていないのではないかと疑義を綴っていた。これもたしかに。言葉が自分のものになった気になる。

 

いや、僕も格言を考えるのは好き。「孤独は良いものだと語り合える友人が居るのは良いこと」とか、「愛する人を得るのは最も良いこと、愛する人を失うのはその次に良いこと」とか、格言そのものより、含蓄とか背景が面白いよなぁって。

 

言語化するなら、前者は孤独の定義を考えさせられる。交友関係は孤独を慰めないという意味なのかなとか。確かにこれを互いに認識した上で情交を結べるのは楽しそう。後者は、愛することができる人が存在することが良いという意味から、関わってなくてもその価値は変わらないまで解釈できるとか。

 

徒然草の「今は亡き人と書物を通して心を通わせる」も良い。心が通うとはなんぞやということが考えさせられる。

 

もう1つの派閥としては、読書においては何を残すかが大事であって、繰り返して読んだり、冊数は問題とならないとしたりする。残ったものを記録するために言語化するという立場。文章としてはこちらの方が美味しいし、僕もどちらかといえば近い。

 

でも、今日読んでいてふと思ったのが、僕は残すとか記録のために読んでいる訳ではないなというところ。本を読むことに価値を置いているともニュアンスが違って、散歩するとかどこかに出かけるとか、仕事をする、ご飯を作る、みたいな生活することと変わらない。

 

言葉に大げさに価値を置かないというもあるが、どちらかというと、人生と別物として捉えないという感じ。知識の為とか感動の為に読んでいる訳ではなく、もっと身近に捉えているだけ。実生活で残っていることを書くのは書評ではなく日記がふさわしい。書評は書評で、それを読んで自分が何を想ったのかの方が大事。

 

僕は義務教育時代、教科書をそういう風に読んでいた。たぶん。覚えなきゃいけない外にあるフィクションとしての知識として捉えていなかったから、テストで吐き出せないのだって不思議に思っていた。高校でそれが続けられたら良かったのだが、やれやれとせっつかれたことにより怠け者になった。

 

 

家族法の専門書を読みながら思ったこと。

専門的なのは後にして。

 

どういう経路ででてきたのかは知らない。「価値で序列を作って行動をすると上手くいかなくなるよな」という概念。実生活における価値とか優先順位ってタスクとしては分かり易くて一見整理しやすい感じだが、問題は、意識が価値を置いていることと、無意識が価値を置いていることに溝があること。意識的な価値は目的とか効率とかを重視してそうだが、無意識はそこから逃げたい。価値があることはしんどいというレッテルが貼られているのではと想像。読書は価値がある、文章を書くことは、自分磨きは、云々。

 

あと、そもそも価値というものさし自体が恣意的なものだから気分によってズレるし、コントロールできるものではないというところ。価値基準において順列が同じものについて、どちらを選ぶのかは、価値では決められない。時間と行動のどちらに重きを置くかなど。この価値で判断できるというものさしは個人的に貨幣の発明とともに生まれたのではないかと邪推している。牛丼何杯食べられるのだみたいなやつ。

 

専門的な話。他の分野では思わないのだが、どうしたら穴抜けできるのだろうなということを考える。家族という法的ルールは会社法とよく似ている。一定の組織という枠があって、その枠を形成するための法的条件があり、パッケージに入れた組織には相応の法的効果があるというルール。

 

結婚式には感動するが、結婚制度自体にはあまり良いイメージがないのは、親が不和だった(そういえばまた夢に父親が出てきたな)というのもあるが、典型的なパートナー関係については特に考えることはない。選択的夫婦別姓制度もあったら便利だろうなと思うだけ。

 

ただ、典型的ではないパートナー関係をどうするかというのがとても難しい。

成人同士のパートナー関係で収まる範疇であれば前もって取り決めをしておく(契約と言える部分も言えない部分もある)という手はあるが、子供が巻き込まれる言われはない。

 

契約と言えるかどうかというのは、何か起こった時に、裁判所に判断を投げられるかどうかで、細々とした取り決めは道徳的な約束事という意味。

 

まぁ、成人同士のパートナーでも相続まで考えるとややここしい。例えば縁を切った親族から離れて同性のパートナーと暮らしているとき、自分の財産をまるっとパートナーに残す制度はない。遺贈したとしても最低限は縁を切った親族に相続されてしまう。

 

親子関係も難しくて、今までは母親と子供は懐胎と分娩という事実で繋がっていて不都合なかったが、代理母という技術が開発されたことによって法律上の母親は誰かが問題になっている。たしか裁判所は代理母の方を法律上の母とした。

 

自然な事実的母子関係というフィクションを採用したことによる。

 

ニーチェが<真理>とは、それがないと生きられないある種の人の<虚構>であるというのがなんとなく。まぁ、制度への信頼も虚構を信仰できるかによるし。自分が問題なければ良いのが普通。

 

この格言が出てきたのは「媒体の現象学」という本で、「今」はこれが書かれたときにはもう終わっていて、厳密には存在しないのではないかというアキレスと亀みたいな文脈。それで良いと思う。

 

言葉の話。意識の方の本で、アインシュタインは「自分は音楽のように思考している、言葉で思考していない」、ウィトゲンシュタインは、「言語が自己の世界の上限である」と語る。どちらも面白い。

 

 

「世界文化史」で、今読んでいる「デミアン」は暗い話だと評されていた。病んでいるとも。

ほんまか? いや、「人間失格」にも暗さを感じないから感覚がズレているのかも。文豪はだいたいうつだとどこかで読んだが、暗がりを内省と言い換えるのであれば、純粋な内省的文章は大好物。日本の文士とされる方々、だいたい飲んでみたい。

坂口安吾さんとか無茶苦茶自分語りしてくれそう。太宰さんは女好きっぽいから飲んでくれなさそう。

 

まぁ良いとして。

 

人が世界を捉えるのはあくまで自分の世界観を前提とした「感じ」。

理屈で捉えるのは後のことで、あくまで感覚質(クオリア)で世界を構築している。

 

だったら、なんで文章は感じと一致していないのかという感じが起こる。

言葉は意味が外在しているから、その意味を読み取れば読んだ気になれる。

 

 

そんな訳なかった。

情報として読むのであれば、物は重力によって落下するみたいな現象でしかなく、現象としてインストールされたことは意識で再考できるようにはならない。

 

僕も言葉では思考していないし、言葉を言語情報としても読んでいない。

じゃあなんだというと、冒頭に戻ってきて、クオリアになる。文章自体が整理されているかどうか知ったことではない。一番近いのは神社とか森の空気感みたいなところ。

 

で、僕にとって言語化とはとなると、もともと自分の中にあるのではなくて、関係によって出てくるだけ。伝わるとかと伝えたいという機能は、相手が具体的でないとないことなのでは。贈りたい、贈っても良いかどうかによって出てくる言葉が違う。

 

要は、言葉の言語的意味とか文法さえ整えれば伝わるというのはフィクションだと思っているだけ。伝わるかどうかは読み手の問題だし、書き手の熱意にもよる。いや、僕には熱意は全くなさげだが。

 

はい、おやすみなさい。

 

元気でありますように。