あるべき自分でない自分

 

 

 

あるべき標準という架空のものさしで世界を測っている。

 

月初めで残業デー。去年の暮れ、最早番の人員足りないことに気付き、早めに来て多めに残業しましょうかと提案したところできるのであればとのことだった。そのおかげで昨日は帰ってからお弁当作るまでの読書時間が煙草1本分しかなかった。ただ、最終的に本来のシフトの定時よりも早上がりさせてもらうことになる。

 

まったくそんなつもりはなかったのだが、世界に遠慮せず我がままに動いた方が上手いこといくのではという世界線を垣間見る。いや、別に自分のことを良い人とは思わない。ただ、利害関係なく世界を細々眺めているなぁということに行動をちょっと加えているだけ。

 

中途半端にすると都合良く使われるかもしれない(経験則)。突き抜けたらたぶんそんな下心持たれようがない(想像線)。

 

セーブするから疲れるのではというのは、「媒体の現象学」で、「疲労」とは時間の遅れという話から。時間と自意識の差異の溝が自分ではないことをしていると捉えられ、それが疲れという感情を起こす、みたいな。生命科学の立ち読みだと、接する物事の変化量と、自分(精神含め)の動きの変化量の割合によって時間の感じ方が違うという話もあった。

 

楽しい時間が一瞬で過ぎるのも、退屈な日常に時間が足りないのも体感としては時間が早く終わっているにもかかわらず、内容は全く逆方向。

 

帰り路で見かけたお月様はいつもの三日月姿よりとんがっていて、なんだかステキだった。

 

 

さておき。

 

たまたま自分が書いた前の日記(「ただの人」というタイトル)を読み返したのだが、旅をした日の文章の方がゆったりしている感じがある。結局のところ何処に行ったとしても見えるものは自分のメタみたいなもの。何処かの光景で何が見えるのかってあくまで当人の世界の話。動きが可視化しやすいのが旅。

 

そういえば、疎通の話。僕は別に無口な人ではない(無口に見られがちだが)。会話も嫌いなわけでもなく、必要としていないだけであって、やろうとすれば場を継続されることもできる。まぁそういう人は何処にでもいるから押上げられない限りやらないが。

 

とは別に、実際にやりとりしなくても疎通できているという実感があることに気付く。もちろん伝わっているではない。なんだろうな、無根拠に否応なく「繋がっているのだな」と感じる人。僕のナカでそれぞれ別の味わいで3名いて、これだけ居れば十分だし関わりが無くなったとしてもこの灯みたいなものは消えない。

 

なんだろうな、この「見ている、見られている」ことへの安心感というか甘えというか。

疲れないし。

 

ともあれ。

 

「時間の終わりまで」は物語に続いて神話の話になった。神話には破壊、死、危険が付着している。たしかに。人が神話を必要としたのは、自我を獲得したことによって他人の自我を想えるようになり、他人には当然死者も含み、フィードバックとして自分が必ず死すべき存在であると分かってしまったことによる。終わりが決まっているということをどう捉えるか。

 

生きている人間が誰も行ったことがない未踏の地が死後の世界で、ここに物語を創造して疑似的に既知にしようとしたと考えると、なんとなくいじらしいというか、時間を取っ払った「ヒト」全体の共通項を感じる。例示では「ギルガメシュ叙事詩」が出てきたが、僕は日本人なので、黄泉平坂のエピソードを思い浮かべていた。

 

死は究極の未知だからどう捉えるかは決断するしかないのに、神話ではだいたい暗闇な感じ。ここにこの肉体を持って生まれたことを当たりとするのか外れとするのかも死との距離感によるような。ちなみに僕は、自販機の当たりくらいの感じ。

 

アイデンティティとか存在意義とか気にしたところでしょうがない。

 

神話の先には宗教があるみたい。

個人的には、神話と宗教の違いは道徳規範から行動規範になったということではと想像。神話はあくまで共通のモノサシで人の行動を規定しない(することもある)が、宗教は現実の動き(修行とかお祈りとか)によって神話を実践することでより現実感が増す。

 

 

ところで、冒頭に戻ってくる。

 

あるべき標準。

 

仕事の話は、最早番は通常2人が配置されているのに、そのシフトの片割れが休みだから補充すべきではないかという気付きによる提案であって、僕がそれをしたら仕事において高評価を得られるみたいな話ではない。

 

この話、何段階か飛躍すると、自分の人格とか能力もあるべき標準で捉えてないかという発想が起こる。「デミアン」でもそんなこと言っていた。内省で最新科学の知見と近いところに至るヘッセさんはほんま変態。デミアンで語られた最新知見は、個人は環境の反映みたいなところ。

 

noteの記事で、「読書」で語句検索すると、冊数を語る人が多いことなんの。

でも、素朴に考えると、個人の読書の速度って誰が既定しているのだろうとなる。自分の可読文字数って、何の負荷もない状態を差しているのだろうが、自分で自分に鞭を打てばというか、自分を決めなければもっと早くなれるのではという感じ。

 

あるべき標準としての自分を何事も起こらない自分換算ですると、そりゃあ時間は退屈になって、冊数ばかりが気になるわなと。良いとか悪いとかではなく、本はそんな外のものさしを気にしながら読むものではないという提案をしたいだけ。

 

友達100人できるかな、みたいな接し方しても何も読み取れないのでは。

知らんけど。

 

(冊数換算すると、まぁ良いや)

 

やれやれ。

 

人が物語を摂取できるかどうかの分水嶺に、「ぎりぎりで直感に反すること」というのがあるらしい。確かに完全に直感に反したことは世界の外だし、いくつかは一致した上で知っていることから微妙に離れたことしか新規にできない。

 

この微妙なズレを発見とするのか不協和音とするのかはそれぞれ。

あるべき標準が壊れても自分で居られるかどうかは器が広いかぶっ壊れているかのどちらか。

 

言語化がしんどいというのもよく分からなくなってきているが、これは言葉で規定されない自分が在ることを赦しているからだろうな。

 

とりあえずここまで。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。