一方通行の世界なぞない

 

 

 

 

職場の駅ビルの地下駐車場の一画に喫煙ルームがある。地下特有の空気を感じながら向かっているときに何かフレーズを思いつくことが多い。リラックスしているということもないのだが、しんとした感じが良いのかもしれない。

 

最近はもっぱら内部的に上機嫌で、わざわざフラットとか下降気味に装う必要はないよなとか、子供の頃に見ていたオトナの忙しさが全くないなぁとか。

 

ふと、自分の直感とか感覚をほとんど蔑ろにしてきたのだなというフレーズが起こる。過去とも仲良しだから別に逆襲されることはない。色々と教えてくれる。今後はもっと現実に寄るところも自分を信じて良いとする。

 

さておき。

 

昨夜は何やらハイテンションで寝付けず若干寝不足になった。

寝不足にしてくれる存在は稀有なので嬉しい(変人)。

 

仕事は量が増えた。ただ、結局勤務時間の縛りの中だから同じ時間で働いている人の仕事が減るくらいの意味合いしかない。自分の遣い方もったいなくないかと捉えだしている。不公平だとかはないが、働いている領域が違うのではないかという次第。何か応用できるか検討してみるか。

 

文章で報酬をもらうということもやったことがあって、変な気分になったが、毎日更新しようが日記はニッキだしなぁ。

 

まぁ良いとして。

 

きちんと生活をしているというコメントをいただいた。前に別の人から僕の文章はまさに日記だと評してもらったこともあり、ちょっと生活とか日常について考えてみる。

 

生活しているという実感はない。だからきょとんとしてしまう。ただ、「生きている」という実感はある。単なるイメージの違いなのかもしれない。「生活」には日常について安定とか持続・継続みたいなニュアンスがあって、別に安定もしてないし続けようとしてやっていることでもないし、ただ続いている訳でもない。「生きている」の実感は日々の今を把握しつつ、動くという自発的なニュアンス。

 

これも地下駐車場の手記(脳内)なのだが、「時間がない」時にもすることが生きることの核で、時間があればするみたいに思っている行動(出来事ではない)は余分なのだろうなというフレーズがあった。

 

最低限の動きをすることが生活であって、足すことではなくそぎ落とすことが大事。そぎ落とした後に残るのは何かを把握すること。僕の部屋は本が氾濫していて汚いし、掃除もあんまりしないのだが、「綺麗な部屋で過ごすこと」の最低限性ってなんだろうな。例えば、探し物が見つからないというのも、インデックスを最低限に置くのであればやれば良い。

 

ただ、単に綺麗にしていることが見栄えが良いというのは足す方になるのでは。

共同生活においてという注釈付きなら分かる。相手にもわかるところに何かがないといけないし、整理はしておかないと。こうなると生活の最低限に格上げされる。

 

なるほど、物理的行動の最低限が「生活」だが、精神的なところは「生きている」としているから、なにかズレるのか。

 

毎日お弁当作って本を読んで文章を書いているが、これがないと物理的に生きていけないという必要性ではなく、精神的に生きるためにあえて時間を確保しているだけで、それをしているから「時間がない」という主観がない。要は、これがないように時間を回すことも可能であるという自由に重きを置いている。代替性があるというのは「生活」のニュアンスに含まれないのでは。

 

いや、でも、「生活」は余力の為にあるという方向性は、ないか。

 

 

僕はまさにそうなのだが。

本を読むことも人を読むことも現実に還元されるし、全部が1つ。

 

世界に対してイライラできなくなってきた。

こういう人も居るわなというだけ。エレベーターを待つ時の扉との距離感がやたら近い人は人が降りてくることを想像できてないし、ニュアンスで伝わらないも仕方がない。

 

1人になって思ったのが、全然怠け者ではないというところ。

締め切り間近にまで先延ばしにしていたのは外に倣っていただけであって、別に自分がそうしたかったことではなかったらしい。空気読み過ぎ問題。

 

 

やれやれ。

面白いな。

 

宗教の話。

 

何万年前かの少女の白骨に装飾品が一緒に置いてあったとのこと。宗教は死語の世界を解釈するものだが、あくまで生者の為にある。死者を悼むって翻って言えば、自分が死者になったときにも悼まれるように振る舞うということなのだろうか。

 

冥福を祈るとかの言葉ってとても嘘っぱちに読めるのだよな。

(空気を読んで誰にも言わないが)

 

ほんとうに必要なのは、こういった社交辞令より存在を覚えられていることなのではという感じで、死者を忘れないために宗教的出来事があるとすればなんとなく分かる。何回忌とか。

 

好きな人のニッキで、人は肉体で個人として区分けされて、精神は全体として未分離なのではないかという説があった。確かに、現実的な実感としての存在って、肉体は不可避に見える。自分が肉体として個人だから、人いっぱんも肉体としての人であるという分かり易さ。

 

ただ、そうだとすると満員電車に居る人達も現実的な人にできるはずで、その標準ではないよなって。あくまで物理的な肉体(関係)の近さを前提とした上で精神を捉えてないと一致しないような。

 

僕の個人的な感覚としてはむしろ逆で、肉の区分けがある方が人って分からないのではないかという感じ。精神が未分離ではないというところを前提としていて、人の本質は精神寄りにあるから、焦点がズレている。

 

僕は現実に関わらなくても人と関わっているという実感の方が嬉しい。

関わりの定義が現実的な邂逅だとすると、エックハルト岡潔の本を買ってほくほくしている女子高生(?)と関わるのは犯罪だが、見る、見られるというインターネット世界はありうるし、これが関係の核だと思っている。現実的に会うと肉と社会的な殻に阻まれる。

(あくまで例示として出しただけで下心は皆無)

 

 

僕はずっと実存は間にしかないと感じていて、色々解釈した。

誰かと精神的に接する時に箱庭みたいな場をイメージしてみるとか。

 

量子論とか現象学で定義されているようでやっぱりそうだよなぁとなった今。

 

現象学で言うと、見ると見られるの間にあるのが現象で、一方的に見る側になるとか見られる側になるなんてことはない。

 

 

よし、寝る。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。