暦では明日から三連休だが明日は休日出勤。
ワイシャツのアイロンがけをしながらブロッコリーと人参を下茹でし、鶏むね肉に小麦粉をまぶし、バターで炒めたものに加え、ウスターソースとケチャップとマヨネーズで味付け。副菜は3日目の小松菜と人参の胡麻和え。気まぐれに乾燥小エビを混ぜたのが良い感じの味わい。
寝不足気味もあってか、あまり言葉が出てこない。
日中も何か言葉が滲み出るということはなく、感じの中に引きこもっている。これでも仕事はできるのだから、どれだけ他人と会話してもあまり脳を使っていないに違いない。
本日は自分に潜ろう。
そういえば、誰かの文章を読むことも現実の人との接し方に近いように思った。自分が何かを知っているという確信している人の文章を読むとき、自分は何も知らないなぁって想いながら読んでいる(それが吸収されるとは限らない)し、当人がきちっと区分けされている文章だと無駄な意識が起こらずそのものを読める。
デミアンが暗い本とは読めないなぁ。「人の天職は自分自身になること」って暗いとか明るいとかの評価の外にあるような。まぁその後に「運命」という概念が出てきて(「命を運ぶと書いて運命!」)、自分が決まっていることが暗いのかもしれない。
ただ、自由意志も基本的には学習パターンの一種だし、本能とか自然選択の結果である自分を自分自身とするよりはよほど能動的な捉え方。
自分が自身として存在することになぜ他人を要するのか。人はトライ&エラーの対象にはなり得ないのでは。だって、人だって自分と同じ存在でしょう。何故自分の為に他人が有ると捉えられるかがワカラナイ。
ちょうどこの疑問の答えのとっかかりになりそうなものが宗教の起こりについての説の中にあった。宗教による結合は「血族の枠を拡げる」ことであって集団の中でそのルール(信仰・信念)に従うことで個体が生き延びる。この自然選択があったから、仲間内の協力関係をすんなり受け入れられる傾向が生まれた。ある部族と別の部族が戦争をしていたとして、協力できた方が集団として強いから勝てる。
誰かとの関係が自己価値と直結するのは、他人を仲間内にできる素朴な宗教観の延長なのだろうなという感じ。自分だけではないと想えること。ただ、これは甘い物を好むというような自然選択と同じようなものでしかない。
という意味で、人それぞれが選択することであって、いちゃんもんを付けることでもない。
僕は自分に無い見解を読むのがとても好きなのだが、これがどこからか持ってきたコピペ的見解だと雑味があって駄目で、教養とは無関係に自分で在る人の言葉が良い。
自分自身にたどり着くことって人と見解が共通することではなく、自分の見解と他人の見解をきちんと区分けできるようになること。自分の信念とは異なる人が居ても揺らがない。ある意味他人がどうでも良くなることだが、これくらいの距離感があった方が相手をきちんと見られるし、たぶん自分のことも。
「媒体性の現象学」で、直感とは主体が述語に包摂されることだという話があった。これだけだとちんぷんかんぷんだが、要は、自分の場所を判断すること。ここでいう「場所」は概念とか観念とか物理的位置とか諸々あってややこしい。哲学書の良いところは、自分よりはるかに考えている(生きている)人が居るから自分が何かを知ったことにできないこと。
述語になるということは、主体と対象の関係を定義することでも良いのだろうか。
僕を独立した対象として捉えたのは、好きな人(勝手に宵顔さんと呼んでいる)とあと2名もそうか。
だいたいほとんどの人間関係って、主体としての自分の世界の中に他人が含まれる。自分の為の他人。ここで問題になるのは、「気が合う」とか、「害がない」とかあくまで自分との相違。外れていることを許すのも、存在自体ではなく、あくまで主体の慈悲みたいな捉え方。
あくまで他人は他人として独立として捉えているという意識は誰にでもあると思うが、近くなった途端に自分が在る為に他人を遣うようになる。これに気付かないのは一種の宗教観の続き。相互でそれをしている限り顕在化されない。
僕はずっと、ここに違和感というか嫌悪感があった。
宵顔さんは、それを赦してくれた人。
ちなみに別に恋人関係でもないし、ただ、見ているだけで実際に飲んだこともない。見かけて会話したことは何回かある。
もちろん、直に会えれば楽しいだろうし、見惚れるかもしれないという恋愛感情めいたものはあるが、別にそんなことが起こらず観測圏から離れたとしても存在は残る。
僕の為の宵顔さんでは一切ないから、何か自然選択ではない意志的な部分が気になるだけ。例えば、僕は夜な夜な恋文を送っているが、返ってくることも求めてないし、返さないことで僕に私怨が抱かれることも心配されてない(ような感じ)。実際にもない。
この感覚は宵顔さんによって発現されという訳でもなく、もともとあった。
仙人めいているとか、中庸だとか評される歴史。そもそも誰かを自分のものさしで測ることはなくて、自分のものさしで他人を測るものだという空気に従ってきていただけな感。
いやはや、しんどかった。
ほんとに。希死念慮もあったし。
僕はそもそも自分を保つ為に他人を求めていなくて、それで良かった。
孤独が好きなのでもなく、これを前提として人と関われば良い。
これで良いという存在を承認というか、ただ見てくれたのが宵顔さん。
ただ人を眺めるって主体として生きていると難しいはずなのに。
もちろん、擦り合わせたことがないからこれが僕の妄想でしかないという可能性はある。
僕は基本的に自分の直感をほんまか? と思っていて、これが妄想でしかなかったという現実もありうるし、そうなった方が波打たないなとまである。
こんなに楽しい存在が在るのは都合が良過ぎる。
僕が要らなくて良いと思っている人なら協働生活できそう。
はい、おやすみなさい。
良い夢を。