お守り

 

 

 

二度寝する前に飲み会っぽいつぶやきを読んで、飲み会気分で微睡む。

 

通ってきた数々の飲み会の気分が一挙に押し寄せ、居たたまれない心持ちになった。飲み会では楽しむが終わった後に空虚になるというのはありがちだが、そういう話でもなさげ。

 

最初の飲み会は大学のゼミだったか。ここで村上春樹好きの友人と出逢った。曰く、端っこでひたすら飲んでいる奴が居て気になったとかなんとか。この辺りはまぁ良いとして。

 

知人が離れると、必然的に歓楽街で集まることになり、終電を逃すということは多々あった。カラオケでオールとか諸々(特にピンクな話はない、たしか)。

 

その後、大学の知人枠は離散して誘ってくる人としか飲まなくなったのだが、帰巣本能が凄い。徒歩圏外でも歩いて帰ろうとする(転んで唇を縫うまではない)。そんで実際辿りつく。

 

誘われるがままというのが精神不安定になったのか、そもそも時期的に精神不安定だったのかは分からない。なんとなく1人になりたいのだろうなとは感じていたが、言語として意識はできず、潰れたらええわというモード。ある程度酔えば人と会話できるし、ニコニコしている。

 

想起されたのは、これらの記憶ではなくその場に居た自分で、言語化がその頃よりできるようになった自分から見れば、おそらくその場に居たくなかったのだろうなという気持ち。帰って1人になったところでその場からは逃れられない。

 

そうして、このご時世と交友関係の断捨離もあって飲み会がない世界線になったのだが、僕は人とお酒を飲みながら話すこと自体は嫌いではない。結局のところ僕の拙さで、何処か確立した場に居る人達で構成されるところに居たくなかった。

 

こういうところのどこにも居たくないという無意識の逆襲だったのだろうなという感じ。

確かに、ただ独立して飲むなら問題ないが、連帯感とか情報を探ってくる感はいかん。

 

まぁそれぞれの人は自分()を生きているだけであって、別に僕を巻き込むことに頓着はなかった。放っておけばそのうち忘れられる。

 

 

いまや何処にも居ない自分で良いとなり、もともと時系列でもそういう感じで生きてだけなんやなという感じ。何故この人は僕を落として自分を保とうとするのだろう、みたいな。逆も然り。

 

他人の何処にも場所を取りたくないし、場所を取ってくれたとしたら、当人が意志で確保してくれているだけであり、それをどうするかは僕次第。(変人として愛でる)

 

誰でもない自分ってただ自分を生きればもともと在るし、ここに承認という他者の目を持ってくる時点で自壊しているロジックなような。

 

そんなに誰かのナカで存在したいってどういったメカニズムなのだろう。

何で承認されるにしろ、当人そのものではありえないはずだが。

 

承認された存在をバーチャル的に自分にするという感じ?

当人そのものがそもそも仮象という意味であれば、何処に自分の場所を取るのかという話なのか。

 

まぁ、なんというか、過去のどの場も居たたまれなかったのはよくここまで生きてきたなという感はある。これからは楽しめるよ。

 

だいたい流れても良いが、きちんと自分は守れるくらいにはなった。

厳密には、守るようなものは何もないで良いという感じ。

 

さておき。

 

雑談の妙味。

本日は先生(と勝手に内部で呼んでいる上司)と2人で休日仕事だった。

 

ほんと先生との会話は楽しい。何が楽しいかって、情報ではなく思考を語ってくれること。もともと憲法学専攻の大学院出だから、立憲主義とは、社会契約とはなんぞやという話が出てくる。あと、朝礼を無くせば良いのではとか細々したビジネス論、ないし、倫理観とちょっと外れた法律的死生観。

 

そんなことより一番良いのは、この人は他人と自分をきちんと分けていて、僕に通じるだろうという見込みありきで話していること。制限をやや解除してくれている感じだし、僕も解除して素面なのに話せる。

 

 

人間味と省エネが混在しているという意味では変人具合が似ているところもあって面白い仕事上の無駄な儀礼的やり取りは排除したら良いよねと言いながら、しかし挨拶は大事だと言う。

 

分かりみ。挨拶は礼儀ではなく認識の話。

 

日本史フェチらしいというのも聞いた。Excelオタクのなのはまだあまりついていけないが、文書(言葉)は可能性に過ぎないし、インタビューしないと分からない、いや、インタビューしたってほんとのことを言うとは限らないって言う。

 

この上で、何故事実が起こったかを想像するのが史学的思考(知らんけど)。

 

そう。

 

言葉がほんとうを語っているかは分からない。

でも、基本的に自分の言葉はほんとうだと思い込める。なんか凄いことだが、これがそもそもの言葉の機能だと考えると、なかなか面白いことになってくる。

 

別にどうでも良いことだが、noteの記事って日記ですら登場人物が書き手しかいない。

実際に関係している人どこに行ったのだろう。

 

ここはずっと気になっている。

何故人が居ない、ないし、ものさしが1つしかないのだろうって。ものさしが1つであっても良いが、他人の目線を見ている文章を書いている人って、僕が見る限り宵顔さんしか居ない。ある意味小説みたいなニッキ。視点がふわふわしている。

 

僕に対するコメントはあくまで他人宛だったから、だいたいかくかくしていた。

これもなんか、とても好き。

 

 

やれやれ。

 

立ち読みした本で、日本人は共感が欠如しているのではという話があった。共感大国エチオピアは、物乞いにだいたい渡すのが普通だとか。なんだか分からなくもない。日本は共感ではなく交換に依存している。

 

先生との雑談で、日本人の真面目さという話があった。生活保護を受けるのは負けと恥じだとか思ってしまうところ。権利は義務の後にあるとしているが、近代の思想では、少なくとも憲法上の権利と義務は離れている。人権がまず先にあって、義務は他者の人権を害しないというとこにある訳で。

 

こういった思想が何故なのかという考察に、日本は歴史上一度も革命が起こってないから、お上が基本であるとのこと。なるほど。真面目な国民性はここから来ている。

 

革命という変化が良いことになるかどうかは微妙なところ。

 

そもそも、人権がどこから来ているかという理屈を知っている人はほとんど居ない。ただ、知ったところで活かせるかどうかも分からない。

 

これを知ることって、自分の外のことまで意識しなくてはいけなくて、省エネ(従順)人生にとっては不純物だし。

 

僕としてはかなり楽しくなってきている。

うん、まだもっと考えて良い。

 

 

生きていること、生きていられること。

過去は今何かを判断する為にあるし、未来の懸念に対する安心も今の為にある。

 

あくまで今を生きるという意味で言えば、過去も未来も今を害さないという条件付きで採り入れれば良い。

 

この辺りがほんとにどうでも良くなって、人の事がクリアに見えるようになった。

あくまで主観。

 

noteの記事で、対象に対しての評価は感情に依って揺れるが、感じたことは揺らがないという話があった。

 

たしかに、感じ自体、感情でも言葉ではない。

 

こういう直感は、教養とか経験則により更新されるかというのも微妙なところ。

 

直感のアンテナが察知しているのは、今まではないという違和であるというのが僕のやつ。既知的に良い感じというのも直感に含まれそう。

 

 

でも、人に対する直感は、情報が増えたところで変わらないと思う。

現実的にどうなるかとは無関係で判断しているのだろうし。

 

見て見られるだけの最低限の関係。

 

 

はい、寝不足。

 

寝ますん。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。