不満は満足

 

 

 

行ったことがない部屋で大雪注意とピコピコ注意書きが出てくるテレビ画面。裏には崖があり、ここに積もると危ないなぁと頂上を眺めると、巨大(遠近感)なコーヒーカップとソーサーが置いてあった。

 

そんな夢と添い寝の妄想で始まる一日。

 

現実でも昼休憩のときにちらちら降っていた。帰り路のお月様は相変わらず頭の真上。雲の御簾の向こう側で優美に浮かんでいた。

 

お弁当の副菜ナムルがやたらと美味しい。もやしをレンチンして中華だしとごま油は平常だが、水切るのが面倒だなと、乾燥わかめ・エビをそのまま投入して給水と具材を兼ねる。エビのうま味が予想より際立つ。レシピ化して紹介したいくらいの完成度。まぁ何グラムとかはてきとーなのだが。

 

この辺りで、自己紹介を事務情報とパーソナリティではなく、定量的に書いてみるという発想が起こった。

 

だいたい1.5リットル~2リットルの水と同じくらいのビールを飲む。煙草は1箱くらい。日々の弁当のメインは鶏肉、豚肉、時々鯖缶。卵は毎日。野菜はだいたい5~6品目をなるべく前の日に被らないように回している。身長172~173センチ(伸び縮みがありそう)、体重は成長期終わってから52~56キロの間で動かない(貫禄とは)。平熱は36度6分から37度1分の間。

 

5キロ分くらいの本をお風呂に持ち込み並行的にお風呂読書し、2000文字~3000文字程度の一筆書きの文章を夜な夜な綴る(1000日は経ったかな?)。

 

最低限の情報としてはこれで十分なような。年齢は定量的な情報ではあるが、精神年齢は違うし、それより読み手の年齢的常識みたいな無駄情報が入ってしまう。これだけでよくわからないルールで生きている人格が読めるはず。ちなみにこの情報に入っていることで努力した領域はない。最低限を試行していたらたまたまここに収束しているから、当然他人にもやれと思わないし、やったら良いとも思わない。良い塩梅は自分で見つけるものなので。

 

 

定量的に把握されない自分情報は、あくまで曖昧なもの。いや、曖昧でないものに来歴の情報があるがこれは「いま」の自己紹介としてはどうなのだろう。共通項としては分かり易いが、どこどこ出身の人がそこここの県民性を持ち合わせているとも限らないし、学歴も然り。なんとなく、「衣服」みたいな感じがある。

 

ポリシーみたいなものも、環境によって変わる。極論で言ったら戦争状態に入ったら僕のお風呂読書もお弁当もビールも煙草もなくなるが。ポリシーは自分がそう在りたい自分という意味合いも含まれそうだから等身大ではなさそう。

 

しかし、noteがお勧めしてくる記事を見ていると今年の自分はこうしたいとかこう在るべきみたいな目標を高々と上げていて、偉いなって想う。そんな偉い人にはなれないというか、僕は自分を自分にとって偉くしたくない。偉くなくてもええで、ただ、何が大事か見つめようかという自己との対話で良い。何かができるようになったくらいで高くなれるのであれば、向上心で生きても良かったな。

 

今日のわんこ、ならぬ、今日の立ち読み。

 

複眼的思考の本。

 

「自分の頭で考える」ってよく言われるが、誰もその仕方を教えてくれないという話。

頭の中の鍋の1つに置いてある命題。

 

常識のバイアスの強固さによって人は考えられなくなるとのことで、これは正しいとは思う。外れないことがまず適応だし、進化論の話でもパターンを学習できることが人間の適応上大事な役割を担ったというのがあった。

 

で、ちょっと考えてみると、この「自分の頭」で考えろって言っている人が本当に考えているのかってかなり嘘っぽい。たぶん、その領域でパターンが多いだけだから、パターン外の事象が減っているだけ。

 

僕が常識を疑っていきたのはこの辺りで、外れなかった自分の経験則が誰かにとって当たりではないという当たり前と、ただパターンの学習が多いだけで権威を誇ることへの薄さ。

 

要は、こういう風に人を貶める人こそ自分の頭で考えてないのではということ。

考えたら分かるやろというのが自分の外にある規則だったら分かるし、それだったら説明できるはず。当人にとって分かってないことを分かれと言われてもそんなことは分からない。

 

考えることの真理は、パターン外のことに備えること。

 

 

この話、別に外向けではなくて、内向きの事象。

 

宵顔さんを現実的に好きなことに対して、僕が集積した常識が全力で否定してくる。

それに対して僕の素朴は、常識に従って良いことがあったことあったか、いやないと反駁している。

 

語用として、僕はそれを表現すれば言ったことにできてしまう、伝わると思い込めてしまう言葉はあまり遣いたくない。常識は最たるもので個別的な経験則と社会規範のブレンドでしかない。

 

人間関係を上手く運用するためには実際の人といっぱい関わるべきという命題は、同じ次元でパターンを学習するという意味では真だと思う。個人的はこのやり方はパターンの集積自体が自分となってしまうという意味で、自分には辿りつけないと思う。

 

じゃあ何をすれば良いのかって、自分の中にある最低限を発掘するしかない。

まぁ、最低限も自分が決めることなのだが。

 

 

個人的なところで、宵顔さんに対する具体的な欲求不満が起こっている。

本能としては抽象的な女体で解消して良いところであって、具体的な個人に対して起こるのがなんか変。具体的な人に起こっている限り、一番の解消はそんな可能性はないと認識することで、僕としても落としどころはここなのかなという次第。

 

だからこそ、不満であることに不満がない。僕は誰も居なくても生きていけるのに、何故かこの人の居場所がある。寂しいから接したいとかではなく。こういうのが幸せなのだろうなと思った。

 

こういう何故だか居場所があることに対する幸せは、具体的に接するかどうかとは別にある。土星人さんのことも呑みフラれても問題なく好きだし。

 

人の認識がおかしいのは、僕が交換という常識から外に来られたからだと思う。

 

やれやれ。

 

伊坂さんの火星の話。

 

プロパガンダを書くのが上手い。自分は正義をなしたんだという密告の快感は他人を外とする限りありうるし、その人がギロチンで処刑されても興奮作用しかない。

 

職場では、感染数が増えたことに盛り上がっていて、現実も然り。

 

人の行動を統計的に動かすのに手っ取り早いのは、未知という不安感を刺激することなのだろうな。不安を解消するためには何でも使える、人でも。

 

個人的に未知は興味になるからあんまり気にならない。

不安をどう扱うかという道具と考えてみるかという感じ。

 

 

何処かで誰かが本を読んでいる限り話題は尽きないと書いていたが、僕は本のことを書くことでセーブしている感があるような。

 

はい、おしまい。

 

おやすみなさい。

 

安心でありますように。