何があってもなくても変わらない、自分にも世界にも期待しない気楽な世界観。
ある飢えには1日2,3回、もう1つは1日に少なくとも1回、残りは7日周期がちょうど良さげ。
緊張としての「見られること」というのは、監視ということではなく、生活上の存在が揺らぐからかもしれない。ふと想った。生活上の存在は誰かに見られることが意識されたとしても心地良い自分とは限らない。
舞台が発明されたのは、まなざしとして揺るがない存在が心地良く居られる場という機能もあるのかもしれない。こう考えてくと、SNSの場の心地良さはまなざしとしての存在と見られてもいい存在として2重の心地良さがあるという機能があるのかという思考の流れ。
さておき。
早番の仕事の起床時間から意図的に少し寝坊して、会社から配給されたカップラーメンと平日の弁当を作った余りの冷凍ご飯を消費する朝ごはん。ついでに、今日中に回収できたら明日以降身軽になるかなと、そのままスーツをクリーニングに出しに行く。
さらに、先に夜ご飯と明日の朝ごはんの茹でうどんも買っておく。朝の時点で夜ご飯のことを思考するのは確かに思考コストだ。自分が夜何を食べたいかという未来のことは朝の現時点ではコントロールできないし、考えても無駄感がある。まぁ未来である現時点の僕は別に何をあてがわれようと文句は付けない。イカのお刺身美味しい。ありがとう。
クリーニング店は、10時までに出せば18時には受け取れるということを契約条項として提示しているのだが、夕方に連絡があり、色褪せで、顧客により色褪せになっても良いかを確認してくださいって工場から返却されたということだった。素朴に考えたら店員さんが朝出した時点でこれを確認できていればこの事象はなかった訳だし、もっと言えば、僕がそれを提示しても良かった(2回目のことだし)。なんというか、何の怒りもイライラも生じない。予測できることだし、その上で余裕を持って準備するようにしたから。
ここで世界に対する期待とイライラの話。
期待することって、一般的に良いことだとされているように思う。自分に対しても相手に対しても。期待を定義するなら、未来の対象に対する予測と結果の一致ということになる。
これを法律、例えば契約として考えると分かる。国家が約束の未来における結果を保証(強制執行という権力を使って)するから、その未来を踏まえて現在の自分の行動を決めることができる。
ただ、明日は晴れただと思っていたけど当日は雨だった、イライラ、ないししょぼん。と、相手にここまでしたのだからこれこれが返ってくるべきなのに、返ってこなかった、期待外れ。これらが同じ意味の期待として語られるのだとすれば、期待は要らないのではないかと想ってくる。
世界が自分の思い通りになるというか、自然の因果を主観で歪めているような。
自分への期待も同じような意味で何か歪みがある。期待するということは今よりも未来の自分の方が大事と捉えているに違いないが、未来の自分はいまの自分が統制できるものではない。だって、ある意味別人だし。未来からすれば、今からすればでも良い、なんで昔の自分に結果をコントロールされなきゃならないのだってならない?
まぁ、期待が承認と近いところにあるという世界観からすれば、期待されることがすなわち存在として意識されていることだということにはなる。自分に期待できなくなったら自分を諦めているに等しい。
何があってもなくても良いという存在承認は主にスピリチュアルとかアドラー心理学(だったかな?)で出てくる。これが信じられないのは、日本人が交換関係に染まっている傾向にあるからだと思われる。だから、自分も意志で支配しなければ行動できないみたいな内省論になる。
人間はそんな存在ではないという世界観。
期待みたいなよく分からない未来のことより、いまのが大事。
まぁ期待されたい人には期待している風に表現しても良いけれど、期待できるから承認しているということはない。何かの世界線が期待できるかということより、相手が僕に期待していないのが嬉しい。期待しないのは独立した存在として認識してくれているからだろうし。
そんなこんな、本の世界へ。
マルクス・アウレリウスさんとウィトゲンシュタインさんと仲良くした。
Kindle読み放題はコスパが半端ない。岩波文庫1冊で1月の料金の元が取れる。
「自省録」を読んで笑ってしまう変人。この笑い、おそらく友人と会話していて漏れてくるものと同列。
「念頭に浮かぶ対象について定義、または描写をおこなってみること」
今日もやっていますし、昨日もやっていました。
言葉の客観的意味を信じていなくて、自分が遣う言葉を再定義しながら用いている。思考は言葉ではないというのもここから。文章として外の意味として通じるものでも、1つ1つの要素としての概念にはその人の中身がある。
あと面白いフレーズ。
「書物に対する君の渇きは捨てよ」
個人的に「自省録」を偉大な歴史的著作として読んでおらず。アウレリウスさんが自分になるための覚書みたいに捉えている。書に対する渇きってたぶん、知識欲ということよな。本を読むことで自分が変わると信じることはやめよという話。
本を読むことは飢え(冒頭)によるものではなく、友人との交流みたいなもの。いや、友人との交流を飢えのように捉えている人も少なからず居そうだが。
自分にとって最低限は何かを把握することという下りもあり、笑みがこぼれる。
賞賛を自分の一部とするなという自戒とか、自然の捉え方とか、ほんと好き。
賞賛の下り。存在は賞賛されても貶されても動かない。エメラルドの美しさが賞賛ないし非難によって変わらないことと同じ。
で、もう1人の勝手な友人であるウィトゲンシュタインさん。
論理言語ではなく日常言語についての記述。日常言語は有機体として難解である。たしかに。
「思考は言語に偽装する」
まさにと思った。思考として偽装された言語を読んでも思考そのものを追うことはできないとも言っていて、言語という共通記号を使った物語みたいなもの。
でもウィトゲンシュタインさんはこういう言語が悪いとも言っていない。難解だと評価しているだけ。
ここでもう1人。
「時間の終わりまで」の人、何か読んだことがあるなと思ったら、「エレガントな宇宙」の著者らしい。
科学者で、思考は言葉で行われると信じている人なのだが、ここでいう思考の言語って、科学的に共通定義がある記号としての言語の操作っぽい。感動的な体験に言語で記述する語り部が出てこないと言っているし。
引用で、「言葉は思考を考えさせるが歌は思考を感じさせる」みたいなものがあった。
僕は人が書いている文章を歌みたいに聞いている節がなくもない。歌というか詩というか、一種の創造空間。
日記として日常が語られたとしても、エッセイとして内心が語られたとしても、そこには言語的な存在としての偽装がある。でも、その存在を創ったメタ的な存在が居るのもたしか。言語世界では日常に在るイライラは表現しないとか、良い風に存在を記述してみるという異空間に居られる。
思考を感じさせるって要は言葉で追いきれない対象を肌感覚で把握することだが、割と普通に生きてればそうなっているはず。対面で話している人が何を本当に考えているかが言語的に把握されてなくても人の良しあしは直感で捉えられる。
ヒトが芸術を生まなくてはいけなかった衝動がこの辺りにあるのかもしれない。
日常では把握できないほんとを可視化するために日常と一続きの別の次元を創作するとか。
はい、ここまで。
緊張するなぁ。
おやすみなさい。
良い夢を。