起こったことは自然なことであり、起こらなかったことは不自然だったから。
誰もが自らの指導原理(by自省録)の元に生きている。故に、交差が良き。
本日の宵(酔い)のお供はなんとなくいつもの一番搾りではなくハイネケン。
大学時代の友人が良く飲んでいた。あの時代だとマグナムドライも好きだった。
京都に行った帰りはだいたいが満月辺りになる。
言ってしまえばイベント事が2回目の週末であることが多いということなのだが、パブロフの犬的に良き結びつき。満月を見ると、よいきもちになれる。ついでに雪も良い感じ。
画像の通り、文学フリマで微々だが経済を回してきた(メガネは本日の防具、チョコはいただいた)。3日くらい硬貨を準備してきたから、全てのお会計をぴったりにしてお釣りの心配がないようにするという微々。
ほんとのお目当ては本ではなかったのだが、ふわふわ自然のままに漂っていたら挨拶が遅れてしまった。会場に入る前に平安神宮に挨拶しておこうかと向かうとこちらでもフリーマーケットをしている。
ともあれ。
会場に辿りつき、まずは見本市。文章の虫だからお目当てがないと迷子になりそう。そうして、文学フリマ自体は何回か来ているのだが、ここって特有で、作者さんが目の前に居るし、「本と人の間」に空間がある。コミュ障で虚無僧(ただの語呂遊び)な僕としては会話してまで本を買うのか、いや本だけだったらkindle読み放題でも良いだろうとかの葛藤が起こりつつ、カタログを眺めながらプラプラする。
最初に立ち寄れたのは、画像右下のミステリー本。ふらふらと引き寄せられてしまった。
「ミステリーが好きなんですか」と聞いていただいたのだが、なんでも読みますと明朗には答えられない。ミステリーを謎解きしながら読まないしなぁ、とか。
「飛ぶ灰皿」は美味しくいただきました。登場人物のキャラ自体もミステリー要素なのかなって。「飲み会が終わったら」を選んだら、先にこちらを読んだ方が面白く読めまっせとのこと。楽しみです。
次が、突き当りにあった阪大の哲学研究会。しらふ/酔いの哲学の雑誌をにやにやしながら読んでしまって、売り子さんはこいつ大丈夫かと思ったに違いない。哲学の文体好きだから仕方がない。僕の哲学では「しらふ」はほんとに正常なのかとは思わなくもない。「媒体性の現象学」の後にお風呂読書でゆっくり哲学したい。
個人的には、そもそも正常とか健康とかを基準にするのがなんか変な感じ。
酔いには意志で向かえるが、しらふは意識されないって、面白い。
お酒に酔えない人もどこかに酔い行くだろうし。
はい、よなよなエール。
次は神奈川から参戦してきた方。それでだけでお疲れ様ですとなる。
長編小説読める方なら、と力作をプレゼンしていただく。2年かけた日記文学。たまたまだが、筆者名が変わる前の最後のプレミア本。
2日分読んだ。たしかに濃厚な味わい。
これだけ日記に文字数を費やせる女子高生が居るのかというとは別に、結晶体みたいなところが良きです。僕は登場人物の美少女達より、これを書いた作者さんが可愛らしいと思わなくもない。
そういえば、次は川上眉山と泉鏡花の青空文庫に乗っていない本で、猛烈プレゼンされて、心意気を買ったのだが、もともと気になっていたのかもしれない。どこで読んだのかは知らないけど。ちなみにこちらの本も少し読んでいる。現代にも通じる、たしかに。想いの一致は通常は探り探りしないといけない。
見本市から買ったのは結局「最良の日」だけだった。雨にまつわるというフレーズに惹かれて、ブースで立ち読みしていたとき、どうせ買わないだろうなという空気が流れていると思ったら、初参戦の人だったらしい。不愛想で申し訳ない、美味しく頂きます。
冒頭の「雨宿り」、人にならないけど人っぽい存在って、関係外の他人のメタファーなのかな。知らんけど。
最後が画像左下の名刺の辺り。時系列ではもっと早かったと思うが、読了したので。
ぐいぐいくるほどではないプレゼンのなんとなく可愛らしい売り子さん(コミュ障なので顔は見ていない、細身のワンピースっぽいのとボブっぽいのと)。おまけのイラストもねだっても良かった。あとから知ったからそんな世界線はないが。
「クジラが鳴いた日」。絵画っぽく見たのだが、なんとなく、環境汚染に対する暗喩なのかなと読めた。自然の動きに人間と同じような気持ちを創造するのは人間の歴史上の常套句というか適応。
個人的に、最後の最後の「またお会いする機会があれば生きて会いましょう」がとても好きです。
色んな人に会えたし、とても幸せな一日だった。
だいぶ疲れて最後の方お腹痛くなったが。笑。
こういう義務的な場でないところでないと個人の指導原理は分からない。
いやはや、良き場。
色んな人が居る世界線。
今日は日記を書かなくなることもありうるかなと想定していたが、そんなことはなく、通常営業。これはこれで面白い。
もう少し潜って、読者という存在。
語ること、伝わることが全てだったら、個別な読者は意識されない。
僕は自分の承認の為に書いている訳でないし、なんならエクササイズというかウォームアップみたいな、言葉と自分を癒着しない試み。
まぁ癒着はしてないにしろ、自分であることはたしか。
ただ、なんで言葉と存在を連動できるのかという不可思議はある。
芸術が永遠を表現できることと近しいのだろうか。
僕は自分のことをよく読んでいる人に対して、自分を承認してくれているとは思わなくて、良くもまぁ見ている変人だとなる。
そういう変人は好物だが、日常生活にパートナーになることを立候補してくれた人は居ない。ここまで読んでなおかつ僕と日常を過ごしたいと思う人は、もはや変態でしかない。
言葉で書かれた存在が真理でないとしたら、一体人は何をもって人を実存としているのだろう。自分にとって安心(なにも認識を変化しなくていい)なのか、都合が良いだけなのか。
ここは発話と書き言葉の違いでもあるのかも。
ほんとどうでも良いし、宵顔さんにフラれたしちゃんと自分で居られる人とパートナーになりたいまではいかなくても、接したい。
文字数少ないがここまで。
おやすみなさい。
良い夢を。