自然

 

 

 

本日もこんばんは。

 

今週は最遅番のため、書き終える頃には次の日になっている。noteが余計に褒めてこないのはちょっと安心。単純な「褒め」に対する変な警戒心がある。なんだろうな、承認欲求がないというか、ひねくれ者というか。承認は褒めを表現することではないような感じ?

 

愛情表現とかも同じことで、表現というのだから相手ありきよな。そういう意図があるのではあれば伝わるように表に現わさないといけない。

 

僕がスキを押すのは、面白いというのもあるが、なんとなく挨拶みたいな感じ。別に具体的にやり取りしなくても、どーも、お互い今日も生きてますなという共通認識の表現。

 

なんか褒めるという概念よりハードルが低くなっているようで、期待とか比較の概念からすると逆にハードルが高いような感もある。褒められるような存在でなくても認識し続けることができるのか。

 

こう書くと義務っぽいが、義務がない世界でそういう関係でありうるのはとても面白いことで尊いのでは。

 

 

 

さておき。

 

 

有給取っておいて良かった。我ながらナイス準備。ねじがゆるゆるの贅沢な日。

ぼーっとごろごろしながら「フラれる」の定義ってなんだっけと思いながら、てきとーなアプリゲームを久々にインストールして、微課金なぞしつつ、漫画を読みつつぼーっと過ごす。芸術で物理的なお腹も膨れているのか、夕方まで何も食べず、(あ、昨日いただいたチョコレート効果72%は食べました。美味しかったです)、思い出したようにカップラーメンを消費した。

 

 

一頻り無気力を勤しみ、夜は日常営業に戻る。アプリはアンインストールして、食材を買い出しに行く。満月綺麗。お弁当に入れる副菜は祖母から送られたらっきょうの甘酢漬けで手抜きするかという見込みだったのだが、きちんともやしのナムル(乾燥エビ入り)を作成する。ねじまき鳥に巻いて貰わなくても良いらしい。

 

 

フラれても、元気。というか、昨日の日記で幸せな日だと自分で書いている訳で、次のパートナー候補を探すみたいな文脈になりややこしくなった。

 

 

世界線としての可能性の方向と程度の話でしかない。

まぁ、現実の生で一緒に過ごす線はないだろうなという感じで、たしかにそういう意味ではフラれたで良い。

 

まぁこの場の可能性を空位にしたところで、別に現実的に人肌が寂しいとかでもないし、褒める意味で承認して欲しい訳でもないし、生の交わりで人に届くとは思わないし(もちろんものさしによりけり)。

 

生身の人って確かにインパクトがあって、生身で過ごすパートナーは生身の自然の世界で過ごすのだから、そこと乖離した精神世界の場での相性は問題にならない。分かりみ。たしかに矛盾。

 

なんの話なのかとなっているが、もう少し。

 

ほんとうにおかしいことなのだが、宵顔さんと現実的に話してみて(楽しかった)、僕はこの人に時間を使いたいが、僕に対してはあえて使われたくはない自分が居ることに気付く。

 

この後予定ありますかの後の世界線を色々想定していて、あぁほんとに無いんだなという答え(このご時世だから時間はあるけどやめとくとか)あり、楽しい世界線もあり。ただ、呑みの場があったとしたとき、僕は稽古キャンセルしたんちゃうかということを絶対気にする訳で、そんな意思決定をさせたくないらしい。

 

たぶんしてくれたとしても嬉しくない。これはおそらく、単純な「褒め」とも繋がる。

 

自然ではないということ。

 

縁があるのであれば、なんかあるのかもしれない(ないかもしれない)が、自然に生活した後のこと。

 

人間の自然を「生身」としての生活とするのはあり。ここには色んな外からの条件があるし、それを前提に他人も判断できる。ただ、これはほんまに人の生活なのかとなると、なんで条件付けを前提にしているのだろうと、しっくりこないところがある。

 

ここで内省的王様のマルクスさんの「自省録」。

 

「指導原理」という概念が出てきて、環境という生身の条件に依存していない。ほんとうにしたいことが生身の条件に支配されてないということをつらつら引きこもって書いているアウレリウスさん、好き過ぎる。啓蒙書みたいに読まれているみたいだが、ただの1人の内省録みたいな感じ。

 

善き人になりたいというみたい。僕はそもそも善いって何ぞやって思う。

善性って性善説とか性悪説で出てくる言葉で、要は、当人が生れ落ちた社会においてという意味合いでしかないような。

 

戦争状態の社会に生まれ落ちたら人を殺めることに罪悪感を持たない人が英雄になるし、善いか悪なのかは外に在ることでないか。

 

 

はたして、自然とはなんなのか。

 

人の認識のことも読んでいる。カントさんの純粋理性批判が数学の本で出てくる趣。

直感は当たりではく、認識の形式だとか。哲学本は皆真面目で楽しい。

 

そうそう、自然。

 

たぶん、自分を突き抜けることなのだろうなという感じ。

したいことにある前の自分に辿り着くと書けば発掘になるが。

 

僕の自然はきちんと人を個人として見るとか、文字と実存を一致させるとか、何の為にはらないし、善い人にもなりたくないらしい。人を自分の為に使わないって当たり前過ぎる。

 

 

はい、文字数少ないのはゆるみの極み。

 

おやすみなさい。

 

良い突き抜けを。