認識は掘削機

 

 

仕事でお客さんから電話越しに「使えない、不満が残る」と言われた。僕自体にというか部署全体のようなもので、仕事の範疇外だから仕方がない。僕がこの人とプライベートの知り合いだったら、では一緒にインターネットで調べてやってみましょうかとはなるが、そういう縁はないし。

 

個人的に良き課題だから仕事で空いた時にできるようになってみよう。と、勝手に糧にする。

 

Excelの関数で行が一致しない値を表に振り分けるという処理。偶数項では1を足し、奇数項では99を足すという数列ってExcelに落とし込めるのかというのも気になっている。データ集計って素朴では興味が無いが、この延長に日常の作業が省エネになることもあるのではないかという展望もあり。PythonExcelを動かすとかメールを送るとか。こういうのも遊びという運動の一種。

 

 

否定的な言葉に全然堪えなくなったのは、メンタルが強くなったというより寛容になったからだと思われる。料金を支払っている仕事だとしても、人を使えると思っている思想は分かり易い。割と筋も通っていて、人格攻撃でもないし、まぁそうだよなというだけ。人を使う人は人に使われるだろうし、無駄にムキになったり凹んだりする必要が無い。

 

何処かで読んだ心理学系の記事に、人のパターンが増えることで人に対して寛容になる、というような話があった(ような)。なんというか、世界が自分と他くらいの分け方しかできない人も居るわなというパターン。料金を支払うことで何もかも許される訳でもない。まぁ認識も人それぞれ。

 

他の記事で「真の読書家は冊数をカウントしない」みたいな辛辣なフレーズがあって個人的に好き。僕は真の読者にすらなりえない、出典すらあんまり気にしてない読書家の風上にも置けない奴だが。

 

さておき。

 

本日は悪夢を見たので、起き抜けに魔除けがてら一頻りエロいことを考えた

黄泉平坂の話が実家バージョンになったグロテスクで暗い夢。家に対して安定ではなく滞りみたいな深層心理があるのかもしれない。持ったらそこから離れられないし。

 

エロい考えの中身はお目汚しだから書けないが、なんとなく自分の中で「考え」に序列をつけないということをやっている。考えに序列をつけることは、階層ごとに思考が固まって流用の範囲が狭まるのではという感。もっと考えは自由にやってえぇで。思想良心の自由を謳歌する。

 

思考には知識というか認識の型が必要で、どこで型を取ったのかに序列をつけると流用ができない。別に実体験なのか読書体験なのか、あるいは精神世界の範疇かを気にする必要はない。あくまで内心の領域では。

 

 

こうやって自由にさせているとある命題が起こる。

 

「撫でる頭も繋ぐ手も、結局は誰でも良いのかもしれない」

 

なにやら身も蓋もない話だが、何故そういう感覚になるのかというと、人生の歴史を恣意的に区切って、現在に相手は1人であるべきという意識があるから。

 

僕個人の歴史を1つにまとめて見れば、何人かとそうなったし、すげー浮気者になる。

 

そうならないのは、過去に接した人と現在に隔たりが設定されているから。隔たりがあるのに、過去のパートナーと現在のパートナーを比べるとか、なんとも癒着な汚職事件。

 

人類自体の歴史とすれば、伴侶が1人であるべきと設定したのはキリスト教だっけ。死が2人を分かつまでという奴。ただ、ここでもパートナーが欠ければ補充して良いらしい。そりゃそうよな、生物的な適応上種を残すような全体の動きがあるのだから、居なくなったパートナーに想いを残すのは不合理。

 

ただ、人間の脳が発達したことにより、時間への認識が拡張されて、ややこしくなる。恋愛感情がホルモンなのはたしかかもしれないが、個人的には脳科学の本で読んだ、適応上の省エネという説が面白いと思う。認識が拡がったことにより選択肢が拡張したが、全部の選択肢を検討すると時間が終わってしまうから、ホルモンでこの人と決めてしまう。

 

この適応をロマンスとして創作した人類の創造力は素晴らしい。

切なさが生じるのも良いよな。不在が痛いという感情。ここでは誰しも主人公になれる。

 

別に全く否定はしていない。人間は色んな概念を発明して発達してきた訳だし、恋愛感情もホルモンの反応とか適応を概念として昇華・解釈してきたものだと思う。

 

だから、別に多数のパートナーが居るという世界観も良い。ただし、お互いがそう取り決めていればという話。取り決めを繕ってそうするのは背徳感という快感があるとしても規定違反である。

 

僕は現在に1人居れば情報量でお腹いっぱいという立場(居ないけど)。

人の生身は情報量が無限だし、1人と接するだけでも大変。

 

 

この話がどこに向かうかというと、自分の存在を時間の隔たりで設定しているから、目的とか抱負の概念が生まれているのだろうなということ。

 

ゆるりと過ごすことは、自分に義務を設定しない。ただ、自分が何をしているか・していないかは常に把握する。

 

未来にちょっと理想的な自分を設定して、その未来に自分が合うようにするというのが目的の概念っぽいが、現在と未来の間の自分はどうなっているのだろうというのは気になる。細かくタスクを設定して、未来にたどり着くことができる人は向上心を持っていると思うが、僕はそういうことはできないらしいことは分かった。

 

絶え間なく続いていくのが自分であって理想的な自分は設定できないし、他人もそういう風に見ている。

 

未来にしたいことがあるのであれば、きっといまからやる。

自分を信用しているとも言えるが、ほんとにしたいことは自分の中でも抑圧されている感もあり。

 

したいことが拒否されてきた歴史があるのかどうかはブラックボックスだが、基本的に自分にできること・できないことは、外から設定されたものでしかなく、何か設定外のことをやってみて許されるみたいな世界は無かった。いや、やれば良かったのだが、そういうことをやってみても良いという認識が歴史上ないということ。

 

それができないと自己否定をする気はないのだが、なかなか根が深い。

もっと色々できそうな感じ。

物語を1本したためる、やってみる意義はある。

書きたいことも伝えたいこともなくても書いても良いよなって。

 

 

まさにここがそれだし。

ジャンルが区分けできないのと、選ぶのがめんどいからハッシュタグは付けない。

 

みなさんなんでもすれば良いという価値観。

 

 

はい。

 

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。