忘れない

 

 

金曜日はなんとなく自炊をしないということが慣例になっている。トロ入りお刺身三種盛りが半額だった。最遅番のうま味。レタスをちぎること、もしくはお弁当に使った副菜の残りを食べることが自炊に含まれるのであれば途切れていないが。

 

自炊すること自体に価値を置いていないが、なんとなく「火を使うこと」が自分で作ることの要素のような感じ。ただ、レンチンでも蒸し料理をすれば自炊っぽいし、火を使ったとしても、それとあれを炒めてこれをかければ青椒肉絲みたいなのはあまり使った感がない。

 

なるほど、手間とかエネルギーより、「自分で味を決めること」を要素としているぽい。ここからすると、時々肴に出てくる納豆。付属のタレは捨てて、オリーブオイルと塩・わさびとか、ごま油・塩で味付けるのは自炊に含まれそう。お試しあれとも言えないが。

 

 

トロ美味しい。ただ、この美味しさは脂質だから一切れで十分。本日のトロ、タイ、ハマチの三種盛りの中ではタイが好きかな。白身魚の方が細かい味で良い。ワインは赤白気分によりけり。1人クリスマスの前にいつ飲んだかも定かではない。

 

細かく味覚の好みを分析したところで、結局あったら何でも食べるし飲む。

 

唯一、居酒屋の生ビールがスーパードライだとちょっと萎えてしまうのはある。ビール好きの人のビールではなく、とりあえずビールのビールだと思う。テンション上がるのは一番搾りで、エビスのなんとかエールは普通。麦とホップだけで作られているビールが美味しい。地ビール大好き。

 

 

さておき。

 

 

前半は、オリエンテーションみたいな感じ。暗号解読とかの謎解きあり。出典が分からなくて、ちゃんと残して細かく記述したら物語になるのかも。

 

後半は誰かの姓が変わるという伝聞情報を聞くシーン。なんだか滅茶苦茶寂しい。ただ、覚醒してから思い返して、この人の場合「取り決め」ではなく「決意」で、応援すること。私信空間は無くなるが、もともとあってないような場所だし。

 

 

現実。

 

仕事は微妙に忙しくて、関数を洗練させる間がなかった。準備だけ。先生曰く、関数はfxボタンの補助を使わず、手打ちするようにすれば組み合わせやすくなるとのこと。まだまだ修行が足りん。

 

 

半現実。

 

友達が居ないという記事を読ませていただいた。

 

そういえば、僕も日常に連絡取り合う友人皆無だった。アドレス帳には何件か登録されているが、使うことがない。

 

ぼっちの輪。

 

もっとも、僕の場合はもともといなかったという訳でもなく断捨離しただけなのだが、交友関係の広さって特に必要ないし、その人自体がこういう外部情報で決まる訳でもなく、好きに生きたら良いと思う。

 

もう1つ、おすすめに上がって来た記事で、「人に興味を持つことの意義」があった。一般論としてはそうなのだろうなと思うが、なんとも味がない。

 

マズローの欲求のヒエラルキーの図が出てきて、人を助けることは自分を助ける人が増えるという意味で返ってくる、だから人に興味を持つようにしたほうが良いみたいなロジックと読めた。

 

そもそもマズローさんがこの概念発明したのはどれだけ昔よと思うし、どういう研究手法で導出したのかも知らないから、はいそうですねと腑に落とすことができない。たぶん統計的な手法であって、統計的には有意なのかなと思うが、なんというか人の欲求はこうあるべきという規範的なものさしがちらほらする感もある。

 

あと、身も蓋もない話だが、自分に返ってくることを期待して人に興味を持つって自分本位であることと変わらない。いや、もちろん否定している訳でもなく、こういう世界で生きられる人はそれで交友関係を拡げていったらイイと思う。

 

こういう交友関係を必要としないのは、おそらく他人に相談して物事を解決するとか、なんとなく時間を持て余して友人と会うみたいな補充する関係という観念を採用できないから。

 

相談については、した方が痛い目というか悪い結果になるという経験則もある。仕事は別でより相談するようになったが、プライベートの人生劇場は情報の枠組みがそもそも他人とは違うから、他人の経験則情報は参考にできるだけであって、従えるものではない。

 

近いからより情報を収集できる、使えるという感じは生生しくてなんだかげんなりする。

 

情報を参照するなら、今の時代、別に生身の人から収集する必要もない。

人生論で言っても人生のことをそれこそ一生考えただろう哲学の古典もあるし、誰かの中にある知識より最新の知見は世界に垂れ流されている潤沢な世界。

 

後者の補充する関係はより生生しい。

人を助けたのだから助けられるという規範で生きるってすんげぇ窮屈。受け取り方次第でどうとでもなるし、助けたと思い込んでいることが余計なお世話なこともある。

 

そういう世界観で僕に接してこられたら、愛想笑いを返してしまいそう。苦笑

 

なんというか、人への興味って自分にとってどういうフィードバックがあるかという次元から離れないと顕われてこないものなのではという知見。

 

noteの記事も、情報収集の場ではなく、人を読むところとしている。

情報源とすると、テレビっぽい聴覚メディアになるが、情報だったら一次情報を検索するし、3分で分かる何某かとかに需要がない。

 

友達居ないのであれば、まずは自分と友達になれば良い。

人と安らうより自分で安らえるようになった方が手っ取り早い。

 

やれやれ。

 

「自省録」で、夢から覚めよ、現実を夢の世界で見たように見よ、みたいなフレーズがあって、僕は現実も夢も半現実も同じようなものだなとしていると想った。

 

こんなこと書くと現実至上主義者の人に怒られそうだが、では、現実とはなんですか? と聞き返してどういった答えが返ってくるかは気になるところ。

 

これで、社会規範の縛りあるいは肉体縛りだったら、いや、それこそ夢のようなものではないですかと返したい。

 

過去の現実と夢は、全部残しておけないという意味で同じだし、現実の体験はあくまで時間がそういう風に流れてきたというフィクションでしかないような。

 

何が違うのだろう?

 

 

社会的な意味における現実も、一応そういう風に過ごさないと痛い目をみてしまうというくらいの意味合いでしかなく、僕も外さないように生きているが、積極的な現実の定義にはなりえない。いや、現実を枷と同義にしている世界観だとありうるのか。

 

こう考えていくと、自然な現実的な自分になる為には無為では駄目で、何か訓練が要るような感じ。ただ自分を生きてきただけの出来事では自分の現実の証左にはならない。

 

結局のところ、自分が現実としていることではないところで気になることの方が自然ぽいという感覚。

 

もちろん、他人が居なければ自我が把握されないのは知っているが、別のその知られた自我に奉公する義務もなく。

 

どの本にも書かれてないが、自我の形成過程って、相対的な否定から来ているはず。観測された他人でない、すなわち自分、みたいな論理。だから肯定を欲するようになるのかどうかは知らないが、そういうのに囚われることが悪夢に生きている感。

 

自分の存在を認識ないし承認するために他人が要る観念ってとても不自由。

そんなことより。

 

僕は僕の存在を読んでいる人のことは気になるが、数ではなく人だから、僕のことを読む時間がなくなって現実で幸せだったら良いのにと思う。

 

 

それでも読んでくれる変人は居るみたい。

 

と、考えてくると、コンテンツとしてこの場では不適切みたいな節も出てくる。

まぁ知ったことではない。

 

はい。

 

おやすみなさい。

 

自分だけの現実でありますように。