世界線の発想の突拍子のなさへの衝撃なのか、全く体が部屋から動かなかった1日。
本屋に国際私法のもう少し詳しい本を買いに行く感じだったのに。
とても幸せな世界線なのだが、なにせ僕が持ち合わせている全ての基準が、「それはないやろ」と言ってくる。直感もクエスチョンマークを返してきて役に立たないし思考するにも情報が足りない。
まぁ、直感は現実的な情報収集のアーカイブから是か違和感かを返すだけのプログラムのようなもの。違和感を抱くべきではないと返してくる。思考は従来無難よりだし、幸せという言葉自体が馴染まない。幸せは言葉で定義できるものではないし。
体は動かないが、指は動く。アニメを久々に見た。「ドラゴンボールGT」が配信されていて、懐かしや。リアルタイムで見ていた。見返えしてみると随分危機感がないストーリー。結局ドラゴンボールで人も世界も蘇るから、縛りがない自由自在感が面白いのか。その中でも社会規範を気にするチチとかのバランスも面白い。悟空は仕事しなくても、というか世界秩序自体再構築できるのにのほほんしている。
ふと、幽遊白書で幽介がS級妖怪になった後、玄海とゲームをしている時のシーンが出てきた。世界をぶっ壊す力を持っている幽介に対して、そういう気分になったらまずは自分を殺しに来なとなんでもない雑談として発するところ。
ついでに漫画を読んで泣いていた。泣きやすい表現媒体として漫画はピカ一。映画とか現実だと周りに人が居て、はばかられる。別に自分にとってどうかもあまり出てこない(出てくる人は漫画を読むのが大変しんどいと思う)。
某野球漫画のおとさんが死ぬシーンは問答無用。感動系の方では某マイナーな妖怪漫画。主人公であるメガネの男性の幼少期、守るために生まれたちびっこ妖怪。主人公が大人になるにつれ見えなくなるのだが、絆は残っている。で、主人公が心惹かれた相手がこの妖怪を認識できて云々というやつ。幸せな世界で泣ける。落語的な世界観の短編漫画。
あと、泣く枠ではないがほのぼのするのが、アラサーのゲーマーが猫を飼う漫画。
実家には猫と犬とインコが居たから、動物漫画も美味しい。おにぎり、自然体の猫っぽくて良き。それとは別に、主人公の自己管理能力がすげえ。平日8時間仕事して、4時間のゲーム時間を確保するとか強者。自分を管理できるから楽しく生きられるのだろうな。
まぁ、僕もこの上なく楽しく生きておるところですが。
ともあれ。
冒頭に書いたように、僕は自分の幸せを可能性としてすら最近発見した訳で、なりたい自分とか、そうあって欲しい現実みたいな観念がなかった。noteを読んでいるとごりごり目標を設定してそうなった自分を記録している人も居て、そんな人にスキを押されると、ビクっとする。
なるようになるし、別に何者にもならんで良いというゆるゆるふわふわで生きており、使えるスキル習得の為に本を読んだりExcelをいじったりしている訳でもない。
他人に対しても、そんなに無理せんでもとか。
いや、自分になるというのはあるか。
自分とは何ぞやという哲学だが、結局は何を感じられるか、認識されるかという受動的なところが本質なのではという感じ。この意味では、書物体験も実体験と同じように観測範囲が拡がるもので、どこかに上限があるのだろうが、今のところそういう気配はない。
本を読んでいて、この見解は全く受け入れられないなというのはない。それぞれ世界観があるだけで、思考の種になる。
そうして本の話。
オセローが終わって小説枠が空いたから、お風呂読書にこの前文学フリマで購入した日記文学を投入した。「千秋の日記」という表現力豊かな(メタ)16歳の女の子の話。作者さんは太宰治の「女生徒」みたいなものと仰っていたが、太宰さんは全部読んでなくて漏れている。
ネタバレになるか微妙なところだが、たぶんストーリーの本筋ではないから大丈夫(なはず)。母親が亡くなって、兄のセンター試験がぼろぼろになるというシーンを読んで、アーカイブが発動。
そういえば、僕の父親が亡くなったのもセンター試験間近だったなと。「千秋の日記」みたいにゆっくりガンで弱っていくという筋ではなく、倒れて結局意識戻らずという。
来週観に行く演劇のテーマの1つに「あの日」があり、僕は「あの日」を想うことはないが、ここだけは唯一のあの日だろうなって想う。ただ、過去として遠くなっていくような時間ではなく、タイムリープして意識だけこの日に戻るみたいな感覚。
僕が家・家族に対して悪いイメージを持っているのは、ここが根源。もっと父親と話しておけば良かったのに、家族という社会において父親と話すことはタブーみたいな空気感があった。父親は悪者で母親が形成している秩序が正しいという世界。
僕はこの世界が父親を殺したのだと思っていて、僕も加害者の一員である。
まぁ罪の概念は人間の創作だから、囚われてはいない。
父親が倒れる前日に、居間に水分補給しに行ったら、こたつで寝ている父親と目が合った。まったく会話なく終わる。次の日、高校に行くために送ってもらうとき、外に出たら父親は倒れていた。第一発見者。雪がちらほら舞っている。
その後の数日は、ワープ。
たしかセンター試験が1週間後くらいにあったような。そちらでも雪が降っていたはず。
(なるほど、雪が良い思い出に上書きされたから、)
父親は岸谷五朗にちょっと似ている。180㎝以上ある身長は遺伝しなかった。(きちんと遺伝していれば高身長っぽい宵顔さん、自重)。
ほとぼりが冷めた後の大学時代、父親がテーマになっている小説で訳も分からず泣いていた。重松清さんの「流星ワゴン」とか。別に高圧的なところは一切なかったが、苗字がダイレクトでな。
帰省したときに痕跡を探しに旧家で一言日記のスケジュール帳を見つける。ふわふわとかちょろちょろとかころころとか、オノマトペ可愛いかよ、世界に対して全く呪詛がない。
たぶん、現代でいう鬱とかアルコール依存症にはなっていたに違いない。冷水のお風呂に浸かるとか、廊下でお小水するとか。家族の中で一番物理的な力はあったはずなのに、暴力に訴えなかった。
基本的ににこにこしながら何も分からないままの退場だった。
こういう状態でも攻撃的にならないってそうとう意志の力が必要だと想像する。
今の僕だったら友達になれるのに。
なんでこの日がずっと残っているのだろうって気になっていたが、可視化できなかった。
おそらく、僕の世界観がこの辺りから発祥しているから。
言葉は繕われるものではなく、存在そのもの。
思い返してもあんまり言語化できなかったが、生身の関係で暖を取ることに対する疑義とか、なかなか面白い。情報量がなんのその。
あぁ、別に暗い話としては書いてないのでご心配なく。
通り過ぎた事象はあくまで今のためにあって、なんなら先の為にあるのでな。
あくまで人は自分で良きるしかないし、世界にいずれなんてものはないという教訓。
これを当初から把握していたことと、時間を冗長に引き延ばして生きている常識に合わせたことで分裂したのだろうな。
そういえば、どの世界線か分からないが、僕の文章を読み続けている人と現実で会話する機会があったとき、僕の文章、どう面白いですかって聞いてみたい。
仲間でもなさそうだし、情報としても有用でもなさそうだということだと、僕を読んでいることになるし、その人の中に僕の文章体がどのように存在しているのかは気になる。
メタ的に読むと、リアルタイム感があるところなのかもしれないと想像。
僕は言葉を記録するための道具として扱っていなくて、ある意味写真みたいに書いている。
写真の面白さって、その像に前後があるところ。
加工したのであれば加工した時間があるし、当人が何をもってその構図を選んだかもあるし。
言葉も、選ぶというよりその瞬間に何が選ばれたのかという感じ。
言葉、物理現象、現実、芸術、なんでも良いけど、世界の理の共通項って、なんらかの規則があるが、その規則を把握できないということなのかなと思った。
天才が発見した規則を可視化するためにシステムとか論理とか数式がある。
もちろん、誰か当人にとっては当人が造物主としての規則だから、これも当人の意識では把握できない。これができるんだったら、とうに人類は宇宙の端までたどり着いている。
僕にも自分で把握できてない規則がまだあるらしい。
はい、おしまい。
なんでもない自分でありますように。
おやすみなさい。
良い夢を。