段階

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既に思ったより持っているものがあることに気付くこと。

寒さや雨等、外在的なものによって行動を変えないこと。

規則は実践するもの。叙述することはできても記録することはできない。

 

我流の自省論

 

発想がわらわら湧き上がって繋がってきたとき、そろそろ人生劇場から退場なのかと思うことがあるのを、どなたさんの記事を見て思い出した。走馬灯の逆バージョンみたいに、頭の中の余計なことばかりに明かりを灯していると、無意識が終わりの予感と勘違いするのだろうか。こいつ、もう自身のことを整理しているわって。

 

無意識には時間の概念がないらしいし。

 

たしかに、終わりの予感は常にある。でも、別に希死念慮とか別れを希求しているでもなく、そういうことも起こるわな、というだけであって、ブレーキたりえない。

 

さておき。

 

未来の「あの日」の下見として、来週演劇を観る会場周辺に行くことにする。

 

雨の中、出かけるのも良い。

 

スキニーの下に傍観用のタイツを履いて、上半身もインナー2枚、セーター、その上にパーカー、さらに薄手のダウン、最後にチェスターコート。靴下も2重にした方が良かったか。基本的に防寒を気にしなくて良い日常だから暖かくすることに疎い。徒歩通勤でも早歩きしていればすぐ着くし、着いた後のオフィスで暖が取れるし。

 

まずはなんば駅で本屋探し。たくさん人が歩いていると無意識が歩調を合わそうとする。たぶんこれは誰しも同じで、歩くことを意識しなくて良い速度なのだろうなという感じ。意識的にマイペースに戻すと、急いでもないのに急いでいる人みたいになる。

 

本日の電車移動のお供はこの前文学フリマで買ったミステリー2冊。往復で美味しくいただいた。古典ミステリーはあまり読んだことないのだが、なんとなくミステリーの伝統に則ったパズルみたいな読み味。個人的には、キャラの人格・性格も味がついていて良い。名探偵役の主人公は洞察力が凄いが、現実的にそういう性質を持っていたら、やっかまれそうというか、実際やっかまれた歴史があるのではないかというくらい、推理することに消極的。たしかになんでもかんでも読み取られるのは、心を読まれているようで嫌よな。という古典ミステリーの落とし込みが美味しい。「氷菓」のほーたろーもそんな感じか。日本において、名探偵はおせっかい野郎となりうる。

 

やっと画像の本について。

 

お目当ての国際私法の本と、ついでに倒産法の本を持ってレジに向かう途中に美学棚を見つけてしまった運の尽き(幸運とも言える)。芸術評論とか芸術史だと少し大きめの本屋に行けばあるのだが、美学はほとんどない。もともと哲学の分野で分類が難しいし、何のことが書かれているのかもよくわからないから需要がないのかもだが。

 

しばらく専門書買えない。

 

そうして、買ってから気付いたのだが、この本、何年か前に高くて買うのを諦めたやつだった。正確な日付は自分の記事(noteにはないはず)を語句検索することにより発見。2020年の12月16日とのこと。2年ちょいの再会。主観時間では1瞬のこと。

 

カントさんの「判断力批判」の解説をしつつ、美学の原型を描くみたいな本で、従来の訳語の定義とか何故その単語を当てたのかまで書かれている親切な語り口で、そりゃあ高いのも仕方がない。

 

あんまりまだ消化(昇華)できていない。

 

今のところ、カントさんが判断力批判で問題にしている美しさは、「適意」=快いであって、快いという事象には3類型があるとのこと。1には機能というか実存に対する欲求。座り心地が良いソファー。2には、理性を基準とした善いこと。きちんと順番待ちがされていることへの快さ。3が、欲求とは無関係なのに、ただただ快い感じ。月とか花とかの景色とか、人の動き(宵顔さんの仕事姿)とか、当人の欲求とは関係なく良い感じがあること。

 

もちろん美学が、スポットを当てているのは3番目。これを無関心の適意と表現するって凄い。

 

自分にとってではなく人に興味を持つというのとも繋がっているような。

 

無関心に他人の美点を観測できるようになること。

ということを、すれ違う人々で実践してみた。カリアゲでてっぺんが緑のちょまんげイカスとか。

 

んまぁ、人に対して美点を述べることってすなわち関心に連動している風潮があるから、表に現わすには窮屈な現実ではある。

 

塗らなくても綺麗な爪と思いますって口説き文句みたい。

オキシトシンいっぱい出ていると思う)

 

褒め言葉は凄いくらいしか語彙がないもっと言葉を知らなかった時代でも、人たらしと評されたことがある。別にたらし(何か良いことが返ってくる)たいが為に生きていた訳でもないとなり、世界に対して遠慮するようになった。

 

適意を制限したらそりゃ世界は曇るしぼやける。

 

全然たらされないという言う意味でも誰かさんが良いのか。

 

どうでも良いが、英語のお勉強は日本語のお勉強にもなる。

僕は日本語も全然知らないし。厳密には日本語を知らないというより、日本語の「使われ方」があんまり分かっていないという感じ。

 

ワカラナイということは、寂しいことなのか嬉しいことなのか。

 

当然後者。

 

やれやれ。

 

自省録の話。

 

アウレリウスさんは皇帝で現実的に不自由なく過ごしていたのに、何が気に食わなかったのだろうな。想像するに、自分として自由でなかったのだろうなという感じ。

 

賞賛を求めないという段で、賞賛は所詮、「舌の賞賛」でしかないというフレーズ。

含蓄あって素敵な言葉だと思う。おそらく自分のことを賞賛してくる人が、何一つ自分のことを見ていないから、そこを求めても意味がないと悟った。

 

まぁ自分が食べられる(意味深)ことへの快を表されることへの快は、動物的な本能に根差していることで、アウレリウスさんもそんなことを集めてもなと思ったかもしれない。

 

ふつうに今にも通じる話。

 

僕としては、僕の文章を食べてどう消化・昇華されたのかの行く先が気になるから、美味しかったとどれだけ評されても、ほぅとしかならない。

 

たしかに、人と人の繋がりって何をもって繋がっているのかがとても分かりにくい。

社会的な番になるとか客観的な繋がった状態が分かりやすくて、そこだけで解除されるあんなことやこんなことがあるのかもしれないが、それは、社会規範として非公然となっているだけよなぁという感じ。

 

ここでの非公然は、性だけではなく善とか贈与もしかり。

 

誰かと仲間内みたいな感覚はあっても、場に対する共有感が全然馴染まない。

コミュニティの中だけで親切である。全然ワカラナイ。立場が低いとされる人に高圧的になる人はあかんと思う。

 

こういうのは越境的思想なのだが、区切り自体は把握できている。

垣根を認識できないと越えるという概念が存在しないし。

 

 

進行形で、いまに居心地の悪さとか違和感があるのだが、これは良過ぎてしっくりこないという文脈。早く不幸せになった方が気楽過ぎるというホメオスタシスが作動している。

 

 

最後。

 

何を美しく(快いと)するかの感覚って、本当にそうかは分からんよな。

 

僕の「雪」に対する適意も、本当は喪失感を塗りつぶすためにそういう風にしたという解釈もできる。本当に好きな感じなのか、それとも何か別の方向性から来ている好きな感じなのか、「感じ」だけしか捉えられないとすればどっちなのか分からない。

 

心理学で良く言う合理化とかのやつ。

 

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

善い夢を。