綴り綴られ

 

 

文章が排泄物だとしても、できればなるべく整えておきたい。

 

 

どーも、そこらのバス停に居るような人です。

この話面白いから、また後で。

 

 

 

ひとまず日記的ニッキ。

 

出勤時の空には真っ白な半月。なんとなく先週買ったニベアにはラテン語で「雪のように白い」という意味があるらしい。あまり荒れてないのだが、いい匂いがする。

 

仕事。先生と呼んでいる上司がキャパオーバーになって怒気を発していた。人には発さないし無理もないなと思う。人が良いから負担が集中してしまう。誰も気を遣わず、ずかずかと仕事を積み上げていく。見えないのか見ようとしないのか。

 

どこ吹く風、僕は世界に対して嬉しがっているということを開くように努める。仕事の区分けがあるから、あまり親身にならないように、かといってどーも○○さん、と存在を認識している内心を定型文の中の声色で表現する。なんだか面白い。

 

そうして、帰ってきて。

 

昨日お弁当の副菜が切れたから、春菊を買ってきた。鍋に湯を沸かしながら、シャツにアイロンをかけ、沸くまでにもう少し時間があった。お風呂にお湯をためつつ、レンチンで目玉焼きを準備し、洗い物も処す。春菊を茹でている間に人参と玉ねぎを刻みメイン料理の準備。豚肉と塩・胡椒で炒めて醤油で風味付けただけの炒め物。茹でた春菊は水にさらして絞り、すりごまとめんつゆと砂糖で味を付け、ごま和えにした。

 

哲学はするものであって読むものではなく、生活もするものであって「している」という状態ではない。

 

 

 

「自己」の続きで思いついたこと。自己を状態というか固体として表現しようとすると「なりすまし」にならないか。

 

noteに1日1文章を書いているって、現実時間からすれば大したことないが、インターネット世界の存在としてはなかなか常駐している。というところから、どれだけ自分を書いたとしても、書き切れることはないから、自分のなりすましにしかならないよなと。なりすましとは、存在Aを別の存在Bが、自らを存在Aと偽ることと定義して。

 

仮に僕ではない誰かないしAIとかが僕の文章パターンを解析して、未来の僕の文章を綴っても、外から読んでいる人はたぶん僕ではないと分からないと思う。ただ、このあやふやさは、対自分でもあまり変わらない。生活のリズムとか事務情報ならともかく、思考パートにおいては言語化くらいしか証拠がない訳で、この言語は存在としての自分と同一性がないし照らし合わせることもできないから証拠にはなりえない。

 

自分が書いたという当人の確証だけが拠り所だが、証拠とは何か他の視点(尺度)と照合して事実とできるということだから、真実度は高くない。幼少期、言い争いで「証拠は何だ、何時何分、地球が何回回ったとき」みたいな問答をしていたことを思い出す(今はしないのかも、もしくは、画像は動画はと進化しているのか)。

 

ただ、これを現実に引き直したとしてもあまり話は変わらないのではというのがこの思索の最終地点。自己の実存が意識で把握できない自律神経とか細胞1つ1つの全体だとすると、現実的に自己だとするものも、ある意味、なりすましでしかない。

 

ただ生きていることに価値があると捉えるべしという記事を読んだのだが、ほんとうはそうではなく、ただ生きることに価値の尺度を当てないようにするということ。

 

ただ、価値の尺度はかなり使い勝手が良い省エネになるものさしで、価値観の梯子を外すと判断が大変になる。いちいち自分と向き合う必要があり。この話、カント流美学にも繋がっていて面白い。これも少し後で。

 

 

さておき。冒頭に戻る。

 

「いい文章を書く人がその辺のバス停に居るかもしれないなんて興奮を禁じ得ない」

 

完全にコピペできているかは定かではないが、面白いコメントを頂いた。別にコメント返しを求めている風でも引用されてとやかく言う風でもなさそうなので、取り上げさせていただく。

 

個人的なツボは、その辺のバス停に居る人という部分。確かに無名の一般人だし、全然それで構わない。というか、とても好きな表現。これへの返答で思い付いたのは、「外から観測できるかはともかく、個人にはそれぞれの宇宙がある」だった。半年前くらいに、自分がなんでもできたらという思考実験で、1人に1つの宇宙をプレゼントするという発想が起こったのだが、むしろもともと人は宇宙を持ち合わせているのか。

 

ここでいう、というかどこで言っても宇宙は「時間と空間」なのだが、誰かの中にどういう時間と空間があるかは当人によりけり。それぞれが世界に対して調律しているからなんとなく同じ宇宙を過ごしていると観測されるだけのこと。

 

彼はnoteのコンテンツが排泄物だと表現していて、まぁ確かにそういう向きもある。僕もそういう風に思っていた頃があるし。

 

僕がこの捉え方を止めたのは、排泄物ではないという否定的な評価ではなく、人の文章を食べ物のように捉えていて、排泄物を食べるというイメージがなんともよろしくないだけ。そんな性癖はないし。

 

もっと無色な言葉で表すなら、言語化は出力になる。アウトプット。

で、排泄物って物理的肉体からのアウトプットから流用されているイメージで、ある意味言語化ともとても近い。

 

体としての排泄には変な話、快感が伴う。解放感。

個人的には二日酔いでムカムカした胃腸からひねり出される虹色の(略)。

 

文章化をこれと同じように捉えている見解も多い。書くことで自分が整理される、自分が救われるなどなど。

 

個人的には村上春樹さんが何処かで書いていた、文章化したところで自分は慰撫されないという見解に近くなっている。たしかに出力なのだが、その前後で発見はあっても快感はない。どちらかというと、どう出力されるかよりもどう入力されるのかの方が気になるところ。

 

「いい文章」ってなんじゃろな。

 

僕はいくつかのSNSを渡り歩いていて、たしかに当初は排泄物的に書くものなのだとしていたが、あんまり排泄されたものとして読まれることがなかったような気がする。

 

言葉に対する距離感が違うのか。

自分に当てられる正しい言葉は無いとしている。

 

どうでも良いが、noteって流行っているからか、比較的若い人の言葉が多い印象。

年齢を自分の情報の一部しているのはそこに意味があるからなのだろうが、年齢って相対的なものでしかないような。別に良いのだが、年齢に意味があるという前提条件で僕の文章を読まれるのはなんとも。

 

僕は誰かから見れば年寄りの人で、誰かから見れば若い年齢の人です。

 

ところで、いい文章。

読み応え、読みやすさ、表記のブレがない、何かイイことが読み取れる、あとなんだ。

僕の文章を読んでも答えには辿りつけないはずだし。

 

まぁnoteというSNSはそもそも良い文章を探すところではない。

情報を発信するコンテンツの文章の方が排泄物感はなくもない。消化する前に吐き出しているみたいな意味で。

 

僕はあんまり良い文章を知らないから、面白い人がおるくらいに見ている。

雑食過ぎて美文とかよく分からないし、書かれているように読むだけ。

 

 

たしかに、そういう意味で僕の文章を読めば、コンテンツとしては面白いのかも。

なにせ、読んでいる人に何も強要しないし。

 

内心、励め、励めと応援するだけ。

励まなくても良いと思うが、そうしたい人に頑張らなくて良いですよと言うのはぶしつけ。

 

 

最後。

 

美学における無関心って、存在の本質を突いている感がある。

 

カントさんがこれを提唱したとき、無関心=冷淡だと誤解されたらしい。これをハイデガーさんが撤回する、までには至らない。

 

ここで言う無関心は、自己と連動させずにあるがままに対象を捉えることにおいて関心という尺度は邪魔だという意味合いでしかない。

 

関心があるものを快いものとするというのは当たり前っぽいが、人の存在の中にはそれとは別に物事を捉えるセンサーがあるということを表現するために、カントさんは無関心という言葉を当てるしかなかった。

 

この意味で、自己に対しても無関心で在って良い。

 

無関心なのにどうしても動かせない人を現実とする。

 

 

はい、どうしてもいい文章を書いている気はしないが、ここまで。

 

 

おやすみなさい。

 

良い哲学を。