上限突破

 

 

もっと人とも戯れて良い。誉も外在的要因。

 

 

しまむらにて暖かそうな靴下とともに腹巻を買ってきた。二度寝が捗らない時を分析すると、腰と布団の間に空気が流れて冷えるからだと気付いたからだ。

 

明日の観劇にも流用できそう。ずっと追っかけている演劇が、この事態により映像作品として展示される。遠慮ではなく条件をどう生かすかという模索が垣間見えて面白い。前には収容人数が少なくなったことを逆手に取って舞台と観客席を逆転させた。造船所ってやはり、広い空間を前提としているのだなと、プロモーション動画を見て思う。

 

ここの中に明日行く人が居たらすれ違うのか。それも楽しいこと。

 

 

さておき。

 

というか、冒頭について。

 

noteが機械的に褒めてくることとか、人から褒められることにじんわり抵抗感があることについて考えていた一日。ここに定期的にやってくる頭打ちが連動しているのではという発想が起こる。だいたい投げやりになって、人とは(自分とは)もっと苦しいものだ、みたいな箱。

 

我ながらややこしいというか、縺れた精神界。

 

「わかる」とは何ぞやという本を徐々に立ち読みしている。認識は知覚から始まる。そもそも見えないものはわからないし、わからないところが何処か知覚できないとわかるようにならない。

 

この辺りでまず思ったのは、機械的なアナウンスによる褒めに影響を受けて止めるというのは外在的要因に自分の行動が左右されていることで、我流自省録に適っていないということ。時間は回すより作った方が早いし、人生の時間の扱い方において、自分が何を思っているかより、何を行動しているかを見るのがほんと。内心でどうしているかはともかく、誰にも(自分にも)強要されずにこれだけ文章を書いているということは、何某かの本心があると推論される。

 

で、次に、なんでこの褒めが嫌な感じがするのかの知覚化。ニュアンスとして、文章を書くのは生活外で、なおかつしんどいことだから、続けることに価値があるという動機で書いていると捉えられることが不快であるということ。人が続けて書いているのはすげぇなぁって思うから、一般論としてこのアナウンスのやり方は正しいはずなのに、巻き込んで来るなと思うって、かなり自意識過剰よな。

 

そこに連動される必要はないのに影響されてしまうのは、これが「良い(風な)」ことニュアンスだからなのだろうな。

 

個人的に自分に動機があってその後に行動があるという説は信じていない。具体的な行動をするためには動機という概念は要らない。腰が冷える→腹巻みたいに。漠然としたこれからの行為に対して、動機=信念みたいなクッションを考えるのは時間が消費されるだけで、したいことは既にしていること、くらいの行動重視の方が信念とか信条とかを持たなくて良くて身軽になるのでは、という感じ。

 

世界はままならないと捉えているし、自分のあるがままでええわという自己肯定感と呼ばれるものも既に持っているが、善い人風に人から見られる部分になると投げやりになって制限をかけようとする。

 

ここの歪さがどこから来ているかというと、歴史を遡った初期辺りのインストールなのだろうなという掘り起し。やっぱ最初の家族か。

 

まぁ、最初の頃、褒められたことがないとは言わない。むしろまぁまぁ褒められて生きてきた。ただ、なんとも具合が悪い。だいたいが僕を肯定する為ではなく、相対的に他を否定する為に行われる褒めに見える。主観的にそれだけ養分にできれば良かったのかもしれないが、下げられた人のことも見えてしまう。一番は姉だったか。僕に劣等感なぞ感じなくてよかったのに、それを世界に対する怒りの発散みたいに攻撃される。

 

何かと否定された。

 

もともとも今でも姉に対する怨嗟はない。どこかで幸せになって居れば良いと思う。ただ、ほぼ最初の世界観だから、あんまり自身で居ない方が他人は楽なのかなということが学習されたのは確か。相対的に低い位置に居た方が良いから、なんにも有用とされることはしない。勉強時間を4時間取っている高校生がこれでも少ないと書いていて、僕は高校時代そんなにやってないわ、すげぇとなる。

 

勉強がしたくなかったというより、水準を周りに合わせた説。

僕の本心はもっと本を読みたくて、世界を採取したかったのかもしれない。

 

褒めに対する警戒心があるのは、僕が褒められることによって誰かが下がってないかと身構えてしまうところにあるのだろうな。まぁそんなことはしょうがないというか、自然なことであって、僕が考慮する、できるような領域ではないのに。

 

で、ふと捉えられた本心。

 

世界のことをもっと読みたいというのは確か。これは1人でもできる。もう1つに、僕の存在(文章)を読んで人が楽になれれば良いなというのがあるらしい。姉は僕(長男)というたんこぶに苦しんでいる節があったが、相対的に自分を捉えなくて良いのになという意味の楽。

 

楽で居るということは、苦しみが取り除かれるとか幸せが足されるということではないから、何にも変わらない。外から来るものではないもので充足する世界観。

 

僕は文章を出力と想えなくなってきた。内心界において言葉は思考とか本心の後に在るもの。その前にある存在、概念、観念の方が大事だし、文章化は世界に対するお返しみたいなもの。これを交換とするのは適切ではなく、循環の方がしっくりくる。

 

僕の中で滞らせるのは自然の流れではないから書いているみたい。

別にここに意志とか動機は要らない。ほんとは最初からこの世界で生きたかったのだろうが、生まれ落ちた生活圏はどうしようもないから憤怒がなくて困る(困らない)。

 

楽しくてしょうがない。

 

もっと現実で遊ぼう。

 

(遊びませんか?)

 

 

おやすみなさい。

 

 

良い夢を。