自己を読む

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腹巻あたたかい。ただ、締め付けられて腰というか内臓の薄さが自覚される。貫禄がある人とか恰幅が良い人とか、物理的には脂肪が詰まっているのだろうが、シンボル的には時間・年輪が積まれている感じで、人生きちんと過ごしている感がある。

 

僕の時間はどこにいったのか。祖父が枯れ木のような体系だったたから物理的には遺伝である。シンボル的に言っても、時間は積むものではなく、あるもの・過ごすものだから、時間を積んでいる風で説得力が出ないから成功ではある。

 

こういう風に自分を読み物とするというのは迂遠な観念なような気もするが、このやり方は個人的に面白い人生観で使い勝手が良い。言葉でももっと遊べそうだし、人の本質にも近そう。

 

哲学を常識にすべきという主張が哲学書を読んだことがない人からされていたのを読んだ。そうそう、哲学ってそういうものよなと想う。もともとの語源は智(慧)を愛する人だったか。これを僕で解釈すると、「答えがないことについて問いを設定して考える過程」が哲学であって、発見された答えを知識とすることではない。

 

知識って固有名詞と似ている。知っていればそれ自体について問いを立てて考える必要がなくなる。

 

あんまり考えてないから意識的に考えるようにしようと思った今日この頃。買い出しにスーパーに向かう道中で、スマホをいじりながら斜めに歩いてくる若者とすれ違う。

 

なんでまっすぐ歩けなくなるのか。おそらくこれは目をつぶって歩いているのと同じことで、視覚の補助がなければ両足の筋力差、骨格の形成等によって歩幅が偏るのだろうなと考える。歩くことは意識されずにできることだが、視覚から入力された情報が無意識で調整かけているのだろうな。

 

こういうどうでも良いことから思考が始まる。

 

視覚といえば、絵画についての漫画を読んだ。芸大入るってなかなかすげぇことなのだなと競争率の話で想う。東京のエリート大学だけなのかもしれないが。きちんと取材がある作品で、現実の人の作品がちらほら出てきて、美。

 

絵描きはこういうことを勉強しているのかというところで、面白かったのがデッサンのところ。立方体は数学で図に示せばどの辺も同じ長さだが、人間の眼は立法体のあるがままを捉えている訳ではなく、ある瞬間の視点から見た距離感を見ていて、遠くの辺は短め(小さめ)に描いた方が現実で見えるものに近くなる。

 

書いてみたら当たり前だが、絵画の歴史の初期ってあるがままに対象を描こうとしていたのでは。ここに遠近法という観念が発明されて「見えるように」描くということができるようになったと想像する。

 

あと、目を惹く絵には、共通の法則があるという話。主題、構図、視線誘導とか人の美感に訴える原理を本能的に習得してきた芸術家の試行がほんと好き。こういう哲学を分かればもっと絵も読めるようになる。

 

ということを考えながらスーパーで食料を買う前に、精神の方のご飯を買いに本屋さんに行く。伊坂幸太郎さんの「火星に住むのかい?」が終わったから補充。伊坂さんはミステリー要素というより、世界観が美味しい。抗えない社会制度という怪物に色々と抜け道を探っているみたいな。

 

そういえば、「争い」という概念について想っていたのだった。いままでで居られないような不都合な状況が起こった状態を差すとして、状況に対していままでのままでいようと闘うのであれば「闘争」になって、ホッブスリバイアサン自然淘汰的なことになる。ただ、いままで居られるということを諦めて、かつて不都合だった状態に合わせて予定を変更するのであれば「適応」になる。

 

どちらも「争い」の概念に含まれるもので、人間が何故生き残ってきたのかって明らかに後者だと思う。闘争で勝ち取られた国家ってだいたい生き残ってないし。昨日見た作品も後者っぽい。予定通りにはマンボーでできないことを前提に適応(共存)した。

 

と、考えると、人間の本質は生物的な闘争ではなく時間から解放された臨機応変性からくる適応なのではとなる。いつまでダーウィンの世界観に囚われているのだろう。考え方を変えても宗教裁判にかけられることはないのに。

 

 

話が飛んだ。

 

本屋さんではめぼしいものがない。今の小説も面白いが、歯ごたえがある古典寄りの方を星って居るらしい。ということで、スーパーの買い出しのあと、最寄の古書店(天牛さん)に向かう。

 

もう、シンクロニシティ的なことを特別なこととしないようにしよう。ただの縁である。

読みたいものは読まれることになる。

 

海外古典が気になっていて、ただ、カラマーゾフとか星間飛行ではない。「怒りの葡萄」があったら買っていたと思うが、「海底二万里」がやたらと主張してくる。これは一旦おいて、ぷらぷらしていると、講談社学術文庫の棚に、まさにその本。「絵の言葉」。縁がぴったり。

 

海底二万里の主張にも諦めて、これも縁。これって「不思議の海のナディア」の原作だとは知っているが、原作は読んだことはない。冒険譚より日常譚のような意識だったのだが、まだ冒険するのか。ちょっと読んだ感じ、漫画の「スプリガン」みたいなイメージ。失われた古代技術とかアナンヌキとか好き。観測技術がまだ低いだけで、現実の世界観さえ更新される余地はまだまだある。

 

「絵の言葉」は漫画で語られた絵画という芸術の方法論を詳しくした対談本。生者と死者をシンボルで分けるために、死者は腕を垂らすとか、ゴッホの糸杉に不吉な感じがあるのは糸杉は墓地に植わっているからだとか、シンボルという型を前提に表現しているのだとか。

 

漫画のこともあって、もとともは歌舞伎のシーン分けのように描かれていたが、手塚さんが映画のカット割りを導入したとかなんとか。静寂を「しーん」という文字で表現するのも発明品。面白過ぎる。

 

たしかに、こういうそこに生きていたら当たり前になって意識化されないシンボルは多々ある。芸術家はこういうのを切り出して再構築しているのも良い。日常における、こういう風に見て取れる人は、こういう人物だという型も然り。

 

(これってちょっと穿ったら、現実的にも「良い人」とシンボルされることは装えるということになり、それを知っている方が有利に立ち回れるということになりそう)

 

でも、これが「言葉」なのかというと読む人である僕はちょっと疑義がある。

 

シンボルも1つの概念であって、概念そのものは言葉で表現することができない。

だから絵画なり写真なり漫画なり、小説なりがある。

 

ただ、概念を読み取ることはできる。で、ここで読み取っているのは表現された言葉だけでない。書かれた概念を文字情報から逆算して、自分の中にその概念を形成する感じ。

 

仮に人の頭の中に「書きたい文字」があったとして、それをそのまま書き顕しても伝わるべくもないのは、デッサンと同じことなのだろうなと想った。書きたいように書いたとて、読まれるようになってない。何か読まれたいことがあるのであれば、読まれるように描かねば。

 

僕の頭の中では言葉は起るものであって存在しているものではないから、人が言葉でしか思考できないってほんまかいなとなる。

 

固有名詞的な、知識としての言葉が氾濫しているというのはもう考える余地がない精神世界。僕が固有名詞を覚えてられなかったのは、言葉が決められた意味を持っている固形物みたいだと捉える学習から。世界自体を暗記物と捉えれば、そりゃあ断捨離(忘れる)しかない。

 

僕が最近しているのは、情報としての言葉は、知識ではなく概念でしかないという捉え方。

知識と概念の違い。知識は個体物で場所を取るが、概念は抽象物であって場所を取らずに漂うし、視点も自在。

 

現実世界において概念を話そうとするとやっかまれるからやめた方が良い。

プラトンさんが言うところのイデアの型みたいなもので、人はだいたい自分が具体的に物事を捉えていると思い込んでいるから、もともとの型ってなんですかって聞いても分からない。

 

そうして、自己は知識なのか概念なのか。

僕は自分の年齢をすぐ忘れそうになる。社会人なので定期的に思い出して聞かれた時にすぐ答えられるようにはしている。

 

自分を知識にするメリットはそれ以上考えなくて良いというところ。デメリットは自分に対して問いを設定できないところだが、別にそれでも不自由はないはず。ただ、主観に頼りすぎるところがありそうな感。

 

(ちなみに僕は自分を概念とすらしてないらしい。)

 

自信とか、自己肯定感とか、変な話、自己を他者に置かないと起こらない発想。

 

自分が自分で在るのは自明なのに、なんで信じたり肯定したりする必要があるのか。

この観念、どんな意味があるのだろう。

 

自分を読み物として捉えるのはこういう視点で眺められる。

 

僕は、変更不可能な自分を自分として読んでいる。自分でも他人でも揺らがすことができない存在が核にある。ちょっと近そうなのが、脳科学の本で読んだ、「クオリアは変更できない、何故なら、現実的な決断をする時点では考えるいとまがないからだ」というニュアンスのフレーズ。

 

どちらかというと、精神で想う自己観で邪魔しない方が自分で在るのではという感じだから、言葉(知識)によって自分を設定する意義もないし、肯定する必要も信じる必要もない。

 

 

森博嗣さんは、自分の中にメタ的な「監督者」を設定するということだが、僕は自分の中にメタ的な「読者」、「観測者」が居るらしい。

 

まぁ何にせよ、「自分」は基本的にフィクションだから、メタ的な役は創って置いた方が良いと思う。誰にでも居ると思うが、居る人と居ない人が居るのかもしれない。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

面白い人生を。