任意

 

 

 

独りの人には1つの宇宙。水も空気もないはずが、言葉(もの)を投じて波紋が返る。波紋のカタチが人の在り様。

 

物よりものが好きだ。

 

 

さておき。

 

仕事でちょっと失敗をして笑われたが、わりとどうでも良くなっている。むしろもっとミスしまくれ自分よという感じ。ただの誤字でそこまで笑われるかという感じで、重きを置いても仕方がない。人は正しい単語・語用という物に寄りかかり過ぎている。こんな正しさより、意味が分かれば問題ないし、どんな意味があるのかの方が大事。

 

でも、言葉の意味というかシンボルの共有って、「絵の言葉」でいうと原初の本能みたい。クスコの洞窟の絵は、食べられる獲物を絵というシンボルで教育したのではないかという笑い話みたいな説があるらしいが、同じ言語(シンボル)を使用して繋がっているとしたいのもなんとなく分からなくもない。

 

面白い文章だなと思った記事で、文章を越えない読み方と超越的な読み方の話があった。概ね理解はできる。たしかに現代文の要約とか論旨の正解を読むのは内在的な読解と言えるし、小説を読むときには物語を自分の中の世界で再構成している。

 

ただ、個人的には言葉自体が越えているものなのではと想う。一応それぞれの単語には辞典で定義付けがされていて、それを知っていたら言葉は遣えるし読めるみたいなことになっているが、定義はシンボルでもないし、概念でもない、ただの1つの側面。

 

いや、たしかに高校時代の読みが足りないときは下線部の近くに答えがあるみたいな手法で読んでいたが、そもそもこれって何も読み取れてないよな。読み取れていると外から見えるようにできるだけ。

 

読まれる文章を創るためには「キーワード」を設定して書くという話もあり、面白かった。僕は自分の文章を書くときにキーワードはおろか、タイトルも決めてない。自分の中でそれを越えないように書くようにして、読み手にも伝わる、自分事として読まれるようにするということなのかな。

 

僕はだいたい徒然まかせだが、書いているうちに方向性は自然と決まっているから、それほどとっ散らかってもないのではないかと観測するし、キーワードは物だからそもそも物を描くために書いてはいない。僕が読まれることより、当人の中の波紋を観測していただける方が。

 

この記事の人の名前を読む限り、文学フリマに出店している人なのかも。機会があったら作品を読んでみたい。そういえば文学フリマといえば、この前買った作品群が全部美味しいから、次に縁があったらお礼参り(語義ではなく文字通り)したいな。宵顔さんにもファンとしてスキと挨拶できる機会があったら嬉しいが限度なのだろうな。現実での抱擁情動はやめて。タックルしたいのも。この枠はフリーで良いわ。僕にとってタックルは必需項目ではないから、なんとでも。

 

 

 

さておき。

 

物と「もの」の違い。

 

ものを哲学する本も読んでいるが、僕の中ではこれは哲学ではなく実感。宇宙における原子(物)の割合は5パーセントほどで、あとはダークエネルギーダークマターだというのを読んで、このダーク(観測できない)ところは、人の意識とかに似通っているのではという発想。

 

物は有体物(物理的に空間を占めるもの)であり結果でもある。人は物が大好きだと思う。いや厳密には、分かりやすくて省エネできるというだけかも。

 

ものというのは、物を前提にしていることもあるし、前提としていないこともある。

 

例えば、建物。物として捉えれば、使えるかどうかとか、見てくれが問題になってくるが、「もの」で捉えると、どういう意図で建築されたのか、建築される過程での人の所作も含まれて来る。「もの」は時間の幅が広い。

 

言葉は物と「もの」の二重性がある。自分に投げられた物から崩された言葉が好物。作法としてきちんと整っていることは誰にも投げられるということであって、あまり引っかかってこない。僕の世界においてここはとても大事な部分。僕と会話している人がふと言葉に詰まって自分の中で探している時間がとても愛おしい。こんなのいくらでも待てる。

 

僕は言葉をものとしているから、キーワードを設定して書くということがあまりできない。劇評を書かせてもらったときも、別に結論が物として在る訳でもなく書いているうちに発見されるくらいの意味合い。

 

これは世界観の話で、自分を物として見てないということは、人もものとして見ていただけ。

 

これを中学生の頃に相手に好かれてしまってなんだか面倒でやめたのだが、やっと戻ってきた感。好かれたいとかタックルしたいとかで人と接していた訳ではなかった。

 

ここまで未婚で生きて来られたのは良くやったな自分という感じ。

ここからだったらあえて設定できる。この年齢圏だと、当人が確定されている人が多いから、越境してもそんなに好かれない。

 

いや、別に誰かに依存することはなく、一緒に人生を楽しめる人とパートナーになるというくらいであって、必要ではない。

 

こんなに気楽になっていいのだろうかと無駄に心配になっているのだが、まぁ世界ってこんなものでしかなかったのかという次第。

 

他人なんてある意味どうでも良く、自分の世界で生きるしかないという世界線。このどうでも良いが蔑ろにするではないからややこしい。

 

よし、寝る。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。