反応

 

 

 

おいていかれるのかおいていくのか。何にせよ人のも自分のも、心を止めない存在でありたいところ。

 

 

安眠というか、深い眠りが過ぎる起き抜け。「もの」的な関わりだけで「物」的にも安らえるってなんなのだ。仕事の調子もなにやら良かった。

 

空き時間にはやかんのお絵描き。注ぎ口が上向きで鈍い金色の光沢があるちょっとぼこぼこしている学校の備品にありそうなタイプを脳内で想い浮かべる。形もポンコツの段階で陰影を描くことはできるべくもなく、デフォルメされたスタンプみたいな様相。それでも楽しい。カメとか木とかリンゴのデフォルメを書き連ねてみる。細かい部分は慣れてきてから。

 

ふと、美術が苦手だったのは、単に描き慣れていない段階で作品を描くことを強いられるという時間上の制約にあったのではと想う。身構えると身動きできない。水彩画で絵の具を混ぜるのが面白かったことが戻ってくる。絵の「具」というネーミングも良いよな。水彩画はまだ先というか、タブレットがあればそういうアプリもありそうだな。先は永い。上手さは求めてなくて、どこまで描けるようになるのかの自己研究みたいなもの。

 

もしくは、自分の中の世界においてきちんと視覚情報界が形成されていなかったからか。見えた気になっていただけ。

 

仕事終わりの帰り道で遠くに見える半分弱のお月様を見かけ、帰宅後にインターネット世界で携帯できるお月様を拝ませていただく。宇宙までの距離とインターネットとどちらが遠いのだろう。ポータブルムーン、クレーターがリアルそうだった。

 

そうして少し本を読んだりもぞもぞしたりしたあとは晩御飯と弁当の支度。本日はすき焼き気分だったため、ステンレス鍋にごま油を引いて、豚肉、白菜、人参、エリンギ、玉ねぎを少し炒めて水を加え、酒、醤油、砂糖、なんとなくの麺つゆで味付け。通常の感覚で調味料を入れると薄味になってしまうため、頑張って多めに入れた。ちょうど良い感じのすき焼き風になり、うまし。ベビーリーフを買うのを忘れたからサラダは大根とミニトマト。副菜は弁当のおかずに入れたら無くなった。代わりに納豆にオリーブオイルと粗塩とわさびを入れたやつ。タレとセットではない素材としての納豆が好きな人なら美味しく食べられると思う。

 

さておき。

 

世界が面白いと感覚するのは、現実非現実とは無関係に観測できるものを楽しんでいるからであって、出来事ベースで生きていないからなのだろうな。観測ベースで人生を生きると知識は知っていることではなく、認識であって、観測範囲を拡げる道具みたいな概念になってそこに重みはない。

 

ついでに自分に何が読み取れたか問題であって、それが照らし合わされるかどうかにも無関心。この世界観では誰かを否定するべくもない。コピペ的なのにはちと厳しいが。

 

カント美学の認識はちょっと救いではある。無関心の概念は「媒体の現象学」にもあった。何も欲さないで確立している。ここから本質には孤立があるとなって、いや、この本やたらと難解だから全然読み取れないのだが。まぁ無関心に適意で生きる人生で良いのだな、気楽という感じ。

 

孤独が寂しいということでもないし。「時間の終わりまで」も終わってしまった。エントロピーって、複雑性が増すみたいな語用で使われているが、オリジナルは、次元(構成要素)が増えていくにつれ、もっともありうるパターンに収束するという概念。サイコロを100個振ったら全部1が出るのはほとんどありえなくて、だいたい中間の数くらいになるというイメージ。この宇宙における物理的な絶対ルールからすると生命の発祥はエントロピーを減少させる方向に働いた結果で、なんならいまこの意識があることも法則からすると奇跡的な確率であるらしい。生きられなかった人が居るからみたいな話より、こういうスケールで語られる奇跡の方が楽しい。

 

宇宙全体の移ろいからすれば、自分が生まれた意味とかを考え込む時間はもったいなくて、自分の存在を使い切ってこの刹那の人生時間を生きること考えた方がよさげ。人を道具として扱うのはよろしくないが、自分の使用法については試せるからアリだと思う。

 

ともあれ。

 

自分の文章に動的に反応してくれる人は良きな。

 

感情の区分けという返歌のような文章をいただく。この心象世界はとても分かる。感情を含めた人格の部屋がいくつかあって、相手によって部屋が違うという世界。ユングさんが解釈すればペルソナとか言い出しそうだが、なんのことはない、認識されていないだけで誰にもそういう部屋はあるはず。でなければ、対象によって対応が変わることが説明できない。いや、なさそうな人も居るような気もするが。

 

鍵と鍵穴も、誰かによって自分が開くという現象はある。エントロピーのパターンで言えば、ほとんどありえないようなところ。宇宙の時間で言えばいつかはありうることだが、次の一致があるころには当人も対象も生きていないから、人生上では1人になる。

 

僕もずっと、自分の心を部屋のように認識していて、この人土足で踏み荒らしてくるわぁとか、庭で接してくれる人はええなとか、永久欠番の空室を作ってくれた人というのがあったのだが、楽になった辺りでこういう観念ごと収去してしまった。

 

部屋もないし、知識もないし、自分の心の世界にはまっさらな白い世界だけが拡がっていて、特に守るべき自分も居ないし、誰かにだけ出せる自分もないという世界。知識も整理されて頭に在る訳でもないから図書館もない。記憶領域でも博物館は無い。

 

ただ、どういう自分で在るのかは相手に依るというのはある。窓ないし、鏡みたいなイメージであって、デッサン的に言うと、相手が自分をどの角度から見ているのかという視点。僕はここに合わせ過ぎていて、無関心な自分では在られなかった。自分のこと以外考えてない人に対しては考えていない自分で在るようにしたし、それが物的な自分として学習されて部屋の中がごちゃごちゃになっていた。こんな情勢ではどんな本もきちんと読めない。

 

自分の頭の中の何の証拠もない世界を開示していただいたのは、おそらく5人以内に収まる。こういうのってある意味物理的に裸体であるより無防備だから、無意識で何重にも予防線が張られている。そこを一言でも否定されたら、存在自体を否定されることになりかねないくらい柔らかい部分。

 

まぁ僕にとっては守るべくもないし、否定の視点も楽しく眺められるようになってきたから、無関心だが。ただ具体的な人に対する反応を観測して、この人とやり取りするの楽しいだろうなと感覚しているだけ。

 

スキとかイイネ!している人は皆スキでござる。

コメントするのはもう少し深みの越境。反応してくれる人にしているのだと思われる。

 

人の心を止めないというのは、貴方は正しいではなく、正しくなくても良いし、楽しくなくても良いし、ただ貴方の意識が存在しているのは奇跡ですよと観測すること。

 

この延長で、コピペ的な思想的世界観の人に正しさを押し付けられそうになったときに、何をもってそれが正しいと思っているのですかって質問する現実が在りそうなのだが、やらない方がいいよな。

 

はい、おしまい。

 

自分に向かえますように。

 

 

おやすみなさい。