認識が宇宙を決める

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姉と父親対自分で言い争いをする夢。起きたあとしばらく憤怒の残滓が心に残っている。現実に起こった出来事ではない。憤怒の波もしばらくぶり。去年くらいには随分荒ぶっていた憤怒氏(便宜上の呼称)。外に対してではなく、自暴自棄だったり投げやりだったりする自分を守らなかったことに対してかなりお怒りだった。めっきり出てこない。

 

夢のエピソード。親戚一同との何かのイベントが終わった後に母屋で寝ていて、父親が早く起きて身繕いする様子が見て取れる。その後登場人物である僕も起きるのだが、車で学校に送って行ってもらう日だったらしく、準備もできていないのに、「すぐ出るぞ」と言われる。

 

そこでかちんと来た僕は、早く出るなら先に言ってくれたら良いだろうが!と現実にはしたことないような癇癪を起す。やけになって、もう先に行けば良いよって言うのだが、一緒に出る姉が、「早く起きているのを見ているのだから尋ねるタイミングはいくらでもあったよね」とぼそっと言う。それに対してもかちんときて、これも現実にはしないクッション状のものを床に叩きつけていた。

 

感情の残滓と一緒に目覚めた登場人物ではない僕は、学校に向かう日とは知らなかったし登場人物が自分だったから夢の憤怒に同調したが、どっちもどっちよな、と冷静になってしまう。自分が送ってもらうのであれば違和感に気付いて一言聞けば良いし、言わない相手もよろしくない。どちらもが自分の至らない部分を相手に転嫁している所作。これって現実的にもよくあることなのかもなとふと想う。伝わった気になって、相手が察してくれると期待してしまうやつ。

 

個人的にそもそも人間が完全でない以上、完璧な伝達手段はないとしているし、こういう現実はこの先起こりえない。伝わることに対して期待していないから。こういう業務連絡みたいなことできちんと確認しないのはお互い様の不備。

 

 

 

そういえば、昨日の日記の高感度な人についてどこかでコメントをいただいた気がする。1度寝の後にもう1回読もうと思ったら消えていたからこれも夢かもしれない。公的に診断されるものではないとのことで、なるほど、やはりというのと、当人は耳の感度(なんだか卑猥)が高いらしく、外出の際、音が聞こえないように対策しているとか。あれ、地味な恰好をするとも書いていたような。見てくれが良い女性は視線が集まって確かに面倒臭そうだと読んだような。

 

あと、エスパーと言われることがあるというフレーズもあった。たしかに僕もなんで自分が考えていることが分かるのだと言われたことはある。いや、見て取ったままのことという感じだった。

 

総括して、外のことに過敏な人が、なんで自分語りが多いのだろうという疑問が起こった。コメントしてくれた人は他人に対する解像度も高いし、本気で心配している言及もあり、高感度の人なのだろうなと感じる。

 

 

ここまで全部夢の話ですが。笑

 

 

さておき。

 

 

本日もほとんど引きこもり。

 

一時だけ散髪と買い物に出た。行ったら店長さん夫婦が居なくて、ゲーマー兄弟の理容師さんしか居なかったため、思わず聞いてしまった。名前を呼んだの初めてかもしれない。なんだか懐っこい人だ。切り方も店長さんよりお好み。

 

だいたい1月ペースで行っていて、先月は店長さんだったから二カ月振りになる。先月も自分が切りながら話したかったんですよと言ってもらう。いやこれは僕が話し上手なのではなくゲーマーだから(見る専になってしまったが)。二カ月前にはこんなこと話していましたよねと、子供のクリスマスプレゼントという建前で新ゲーム機とゼルダを買うとか、クリスマス用に理容院の窓にお絵描きするとかを言うことで、話が捗った。

 

ついでにゲーム情報の話になって、調子に乗って開いていたら師匠って呼んで良いですかと言われる。以前ならというか僕は凄い人だと思われることに対してとても忌避感があるのだが、この人だったらまぁえぇかとなる。

 

たぶんこの人のこと人間的に好きなのだろうな。自分の中でやり取りに違和感がない。人に対してフラットなところなのか、単なる人柄なのかは分からんけど。

 

 

そうして、帰り道。

 

自分のことを覚えられていることが嬉しいという感覚について考える。僕にはそういうのはないのだが、他人の中に自分が存在しているというか、自分が相手に関心を持たれていると認知できるのかもしれない。僕の中には無関心にいっぱいあるから、悪用すれば歓心を得放題ではとか思ったが、自然の自分で過ごしてこれだから、「人たらし」と評されたのも分かってくる。

 

僕もこの、大事なことは記録されているみたいな共通観念でやってみたことはあるが、僕の事全然残っとらんやん、寧ろ自分が相手の中に存在しておきたいだけやん、となりやめた。僕は誰かの中に残っている自己の存在をもって相手から関心があるとはできない。

 

この話は僕の自己制限にも繋がっているし、冒頭の言い争いの夢ともしかり。もっと初期に自分の性質に気付いていれば、擬態のための無駄な齟齬は無かったのかも。

 

自分が凄いとかではなく、接した外界が残っているし出し入れが自然にできるというのは、義務教育では直接的に優劣ができる。田舎の進学高でもない井の中だが、少年期にはこの世界しかないし、自然に動いて勝ってしまうのがとても嫌だった。争いで優劣が付くことに違和感。部活の試合でも練習では上手いのに勝ちきれなかったのも、メンタルが拒絶反応起こしているからだと思われる。

 

今となってやっとそんなことはともかく自分を生きるしかないということになってきたが、なんとなく残っていることを全部出せることを開示することに拒絶的な反応がある。例えば昨日の晩御飯とかなら良いが、どこまで辿れるのだろう、どこまでなら人間的なかとか、誰に対してであれば素朴な自分で良いのだろうとかはある。こういう意味で宵顔さんには明らかに心を許しているのだよな。赦しもないのに。

 

 

この話とも繋がるおやつ。

 

「人間と都市」。まじうまし。

 

ずっとこういう種があったのだが、やはりなという感じの鳥肌立ちっぱなしの本。「はじめに」で「人間は認識の構造をもって宇宙を創り出す」という哲学者のフレーズが引用されているのだが、ある段階からそうだと思っていた。人間の認識と量子力学が似ているのは、人間が人間の本質に辿りつきつつあるのだろうなって。

 

あと個人的にしびれたフレーズが、冒頭にある「文明と自然の間に生きる人間」。本筋から外れたところで、人の存在は何かとの間にしかないのだろうなと想う。まずもって自己観も誰か他の人間と接した間に構築されるものだし、人の思想も発想も間にしかない。

 

寂しいとか孤立した自分という存在自体が他律的に出来上がっているという意味では繋がりがないと言うことができない。

 

そんなことより、都市の話。文明は都市を創り出す訳だが、都市の原初は自然(砂漠)を開墾することで、対自然への抵抗だったとか。現代日本人のだいたいが都市はもともとあるもので自然とされている感もある。ただ、どの都市にも一定間隔で緑がある。ほんとは心地良い自然に回帰したいという楽園的感覚。

 

どこかにエデンがあるという原風景が共有されているって面白いよな。日本は基本自然リスペクトだから、神殿が木造だし、とあんまり本の話は書けなくなってきた。この本の話は更新しゆくものとして。

 

この本を読んで想っていたのは、今の素朴な精神世界の自他の枠付けって、この自然(=他者)と自分(=人)の境界的感覚が継承されているからなのではというところ。精神世界に侵攻できる存在は居ないのに、壁とか部屋を創設して架空の敵に対抗している攻城戦。

 

でも、精神世界においては物より架空の方が強かったりするからややこしい。

物証がないことでも思い込めるという間に宗教とか都合良い解釈がある。

 

人の存在の面白みを味わうのが楽しい。

 

まだ明日も休日か。

どうなることやら。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。