宝探し

 

 

 

結局どこにも行かなかった三連休。しかし、よく動いた。

若干寛ぎ空間にも行ってみたかったが、行かなかったということはまだ終わらせたくないのだろうな。

 

朝ごはんは長ネギの青い部分を刻んでかけうどんと納豆ご飯、昼は残ったネギとすりごま、塩昆布、めんつゆ、マヨネーズをかけたズボラ丼。休日の時間で一番面倒なのが食料補給である。お手洗いもやや。トランスが切れてしまう。夜ごはんは明日のお弁当もあるため普通に作った。豚肉と白菜とレタスのコンソメ炒め煮、もやしナムル。

 

トランスというのは、催眠と気功と武術の共通項みたいな本をウォームアップでkindle読み放題から読んだため。トンデモ本みたいだが、学者が書いている。キーワードは「変性意識」状態。火事場の馬鹿力みたいなものだが、催眠状態もこれで、もっと日常的には寝ている時にはこの状態に入っているとのこと。なんだか色々と腑に落ちる。高学歴な人ほど催眠にかかり易いのは、普段から変性意識状態(自己催眠)で勉強しているから。たしかにいちいち自他を分けていたら内部で自由に動けないわなぁって。某カルト教団にもそういうノウハウがあったのかもしれない。

 

もちろん、悪用しなければ無駄な自己催眠が解けるとか、効用があるみたい。気功とか武術には意識的に変性意識状態に入る手法がある。いわゆる呼吸法。誰かさんも書いていたな。

 

催眠というと変な先入観があるが、ここがすんなり受け付けられないということは、それより強固な催眠がもともとかかっているとも言える。こういうのも自分に至る道具の1つとすれば、たぶん使い勝手が良いもの。僕も鵜呑みにしている訳でもないが、この変性意識状態って、自分を通して世界と一致している状態で、なんかちょくちょく至っているなと思っただけ。

 

没我みたいなところ。エックハルト氏も原著読んだことはないのだが、引用で同じようなことを書いている模様(気が合いそう)。「自己を経験し続ける運動の中で人は自己に至る」。経験から情報として収集された自我ではない。

 

 

ぷらぷらと色んな人の庭を訪問していると、書く意味を思索する文章があった。寂しいからだとかあったが、理由とか動機とエネルギー源は必ずしも一致しないと思う。その中で、思考を内でしているとネガティブに陥るという話があった。

 

僕ももともとそういう傾向があったが、いまや思考を負に至るものと定義していない。もっと別のことを考えるのが思考・思索であって、既知の外に行くこと。

 

ネガティブな思考って、変な話、経験則による反応だから発端から既に決まっているんよねというのが、あくまで僕の話。悪く捉える傾向である催眠的な自分から生まれた発想だから、どこまで考えたところでどこにも行けない。これを思考と呼ぶのはもったいない。

 

社会的な価値観も一種の集団催眠と言えなくもないなという思索。あまりに人を制限するような考え方が多すぎないかとずっと思っていた。正しいレールがあって、そこから外れた者は排斥されるとか、そもそも正しいと悪いで一刀両断できる現実なぞ無いのに。

 

あんまり内省していても宜しくないなと、最近言われている「多様性」の概念について考えた今日この頃。

 

僕はこの言葉、とても違和感があってむしろ毛嫌いしている。言語化する試論。この言葉って、僕が良く書いている人それぞれという個別化ではなく、むしろ集団を小分けするような言葉であるところが嫌だ。多様性という言葉で人の個別の差異を認めているような感じと思わせて、実はその前に人であるという共通項に視点を向かわせずに、差異の特別化によって人を分断する。

 

だって、個別に見たら人が多様であるなんて当たり前で言われるまでもない。「死に至る病」でキルケゴールさんも人は個人として人を見られない、みたいなことを書いていたし、時代で共通なのか。多様性って別に個体差を示している訳ではなく、傾向差であって、その細分化にどんな意味があるのだろうと考えていくと、為政者・統治者視点だとこれが楽なのだろうなと思った。バベルの塔の話の現代版。

 

なんかあんまり書くと何かに引っかかりそうな感じがするのでこの話はここまで。

 

「人間と都市」もなかなか政治思想的な感じ。古代ギリシャの「ポリス」と聞くと民主主義がイメージされるが、そうではなく、ほんとは仲間内だけを守り、原住民を征服して奴隷にした上で成り立っている都市観。まぁ日本だって同じようなもので、領土の奪い合いから統一国家が成り立っている。自然を排斥したいのは何か後ろめたいことがあるのかも。

 

ここに「絵と言葉」を持ってきて、西洋の絵画には、シンボルの意味が構図としてあるらしい。そういう辞典もあるのだとか、哲学の構図は階段で空に雲が浮かんでいるとのことで、ラファエロの神殿の絵に意味が分かった。勤勉はロウソクと鶏(朝までやっているという意)と本だとか。

 

日本の場合は、概念に具体的な人を当てるというのもあった。勤勉は二宮金次郎とか。個人的にいちいち自分の行動に意味を置かないといけない観念、やめてくれと想うが。意味がないことしかしちゃいけないみたいな制限的な観念が蔓延る。

 

文章を書く意味に戻ってきて、共感されて嬉しいとか読まれて嬉しいとか、ほんまかって思う。僕は僕の文章に共感するくらいなら自分をもっと見てあげてって思っているし、メカニズムがどうもおかしい。

 

このほんまかというのは、フロムさんの「愛するということ」「生きるということ」にも感じる。ほんとにそんな規範的な愛とか生とかで生きるべきと思っているんって。啓蒙的な意味で薄味にしたのだろうという読み味。

 

自分の過去を掘り下げていっても、知らない人に賞賛されることに意味を置いたことがない。だからランキングが嫌だった訳だし。で、初期の頃の自分と問答。一体何がしたかったの? 言葉は返ってこないが、感じ読みでは、もっと自分と世界で遊びたかったのだろうなという次第。ここに人が入ってきても左右されないようにしないとな。

 

そういえば、宵顔さんが自分の宝物の「もの」語りを書いてくれた。たぶん一生書かないままで終わっても良いくらいの希少な文章。その意味を知っているのはきっと僕だけなのでは(変な自負)。恋人の定義が変わる。どこまで付き合ってくれるのかは知らないけど。

 

 

僕も何か「もの」語りあるかなぁと、探索してみる。1つは星座の神話の漫画本。ぼろぼろ過ぎてガムテープで補強されていたし、物語がない。もう一回読みたいなとグーグル先生に聞いてみたが、なにせ表紙のカバーもないし、金色の羊くらいしか残っていないから再会は難しい。

 

と、これを書いていた時にふと思い浮かんだ物があった。

 

中学校では軟式野球部だった。これは歴史上の選択間違いだと思っているのだがともかく。父親がグローブを買ってくれた。僕は成長期が遅くて当時140㎝台で、いささかでかくて重すぎる。そういえば母親が買ってくれた制服もどうせ大きくなるだろうってぶかぶかだったな。

 

僕が野球に合ってない逆恨みでこんな重いグローブ買いやがって、全然動けんわと怒っていた。成長してからは別に普通だったが、そもそもチームプレイ駄目な奴。思惑が錯綜し過ぎていてメンドクサイ。

 

「もの」語りはこの先にある。部活の迎えに来ていた父親がたまたま僕のバッティングを見ていた。打撃も下手なのだが、たまたま右中間に良い感じで飛んだ。これを見ていた父親が自分のバッティングと一緒だって嬉しそうに言う。僕はそっけなく振り遅れじゃないんって応えるシーン。父親とはもう現実的に関われないが、唯一気持ち良い宝もの。

 

このエピソードにまつわる物としてグローブがある。もう現実には無いかもしれないが、あんまり関係ない。

 

あと最近で言えばステッカーも宝物。

 

 

 

もっと遊ぼう。

自分の感じをあまり疑わないようにすること。行動化には一息置くこと。

 

はい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。