味わい

 

 

 

大人しく洗濯して引きこもりな一日。

 

働かない2人の最新話で森見登美彦さんの「熱帯」が出てきてほっこり。たしかに入り込もうとしたら没頭できるくらい面白かった。ただ、最近なんとなく没頭という時間ワープを使わないように意識している。「夜行」も美味しい。

 

考える対象が拡がっているからか民法の本を読んでいるときにそもそも利息の起源とはという問いが浮かぶ。お金自体より貨幣のシステムが気になっている模様。もともとは教会が蓄えている籾殻を農民に貸して、収穫の際に割増で返すというという自然の時間の流れの中にあった。ここから貨幣の価値が時間の流れによって増すという発想になるとは、人間の創造力って凄いな。でも、金利って経済も拡大していくこととセットだろうし、今後どうなるのだろう。

 

「利息 起源」でグーグル先生に聞いてみたら出てきた情報。何かの情報をピンポイントに知りたいときには、書籍は検索性が迂遠で、インターネット世界の方が早い。ただ、インターネット世界で問答的に答えを得たところで、だからなんなのだという感じがある。物足りないというか、使いようがないというか。本の情報はピンポンとではないが、広かったり深かったりして、残り易いし使える。

 

そこで、Kindle読み放題でこういう書籍がないかとストアに行ってみる。貨幣は無かったのだが、談社+α新書フェアが開催されていて、なんとなく「味覚のメカニズム」についてのを読んだ。これくらいの文量だと1時間くらいで読めるから良き。

 

甘味、塩味、酸味、旨味、苦味が人間の下で味わえる感覚で、辛味と渋味は痛覚寄り。味覚は味わいを意識していくことで鍛えられるし、無意識に蓄えられるものだから、苦手な味でもいつの間にか馴れていることがある。

 

僕が最初に苦手だったのは、給食に出てくる酢の物とか、ボイルキャベツとか。酸味は疲労がないと求められない(クエン酸)だし、味が未知すぎた。ボイルキャベツは食感の問題。ちょうどО-157とかの辺りで、食中毒対策だったような。大学入って後の居酒屋で衝撃を受けたのが、セロリの浅漬け。薬のような味がする。あと、カップラーメンのトムヤムクン味に入っているパクチーの風味。どちらも馴れて克服した。

 

ちなみに本日の副菜はきゅうりとワカメの酢の物。乾エビ入れると旨味が追加されてうま。

 

 

個人的に味覚は人の世界の採り入れ方に最も近いと想っている。美学でいう「趣味」もそうだし。味覚の個別性と、言語化による閾値の共通化みたいなところとか、甘さを好ましいとするところとか。僕の中で、「可愛らしい」は、味覚で言うと甘さではない。旨味に近いがブレンドされている。

 

個人的に甘ったるいだけのものってあんまり好きくない。甘さには褒賞とか善きものとかという観念がセットされているという意味でも味覚的な感覚は世界観と似ている。恋心が甘酸っぱいとか、辛いことに対して辛酸をなめると言ったり、酸いも甘いもという語用もあったり。

 

味覚がざっくりしている人は世界にもざっくりしているのではないか。というのも乳児の段階で、口に入れる(世界を採り入れる)ものは物としてのまさに死活問題だから、母乳がちょっと苦くなると分かるらしい。乳腺が閉じると薄甘さの味が変わるのだとか。

 

これって、表情の学習も同じことよなという感じ。この顔をすれば周りは喜ぶとか、この顔をすれば甘やかしてくれるとかを味わいながら自分のものにしていく。もっと言えば、倫理観も然り。当たり前の味に馴れていくことで、一定の世界がインストールされていく訳で。

 

この一定の世界のインストールは行動というより言語になる。言語はその社会における最大公約数みたいなものであって、その言語を使うということが一定の閾値を越えていると意識されるから。でもこれって、自分の舌で世界を味わっているとは言えない。自分の舌が感じる味は当人だけのものであって言葉にできない領域が無限にある。

 

ノルウェイの森では、死は生と対極にあるものではないという味覚が言語化されているが、ウィトゲンシュタインさんは、人は死を体験しないと書いている。僕の舌は後者寄り。味わえないから他人の死から自分の死の味を類推しているだけ。

 

味覚の本で、コーヒーとかビールの苦みは馴れて美味しくなるというフレーズ。コーヒーはカフェインで覚醒するから美味しくて、ビールはのど越しだとか。個人的にはどちらにも甘味が含まれているし、コーヒーのカフェインで覚醒できた記録はないし、ビールは何杯目でも美味しい。

 

目玉焼きも、何も付けない派。

 

自分の味覚の個別性が意識されてしまったら、他人の味覚(世界観)に疑義を催すことがない。その味わい方で何故僕を味わうのだろうとは気になるが。

 

倫理感も馴れている世界の味わいに等しい。性善説性悪説の論争があるが、人は無垢で環境を学習するだけだから、どれだけ社会に高尚な倫理感があったとしても、周りの大人がそれを建前として過ごしていれば、それを学習するだけ。読書嫌いとか勉強嫌いなオトナがどれだけ子供に義務を敷いても、子供は言語の前に空気を食べる。

 

僕がまさにそうで、AC風潮はあるが、僕の中に居る子供は、人に認めて貰えることは求めてないらしい。有用性があれば認めて貰えるし、有用でなくても認めてくれる人というのは、要は自分にとって理想化された人のこと。他人を自分の人生に使う必要はない。

 

そういえば、ACの人は創造性が高い傾向にあるという記事があった。内向して世界を形成するから、精神世界が豊かになるのだとか。ほんまかいな。

 

と、ノルウェイの森に戻りつつ、僕の愛の観念が、物的に一緒に居ることでないのは物的な共同生活が、互いを拘束するものでしかなく自由ではないという感覚に馴れてしまっているから。一緒に居て何かできることを愛としても良い。ただ、原因と結果を逆転させてはいけないと思う。

 

僕は割と倫理感は無視しているが、物的な自分は1つだから物的な関係は1つとしている。

花をプレゼントしたい世界線だった。絶対邪魔だし有用ではないのも分かり切った上で。別の女の子に相談したらそういうのはやめた方が良いと言われたが、この人も僕のこと好きだったらしく、ややこしい。

 

僕の好きは、相手を拘束しなくて良いもの。

 

味覚のメカニズムは科学物質と味蕾の受容体の関係であるし、精神の状態も脳内の粒子の配置でしかないし、突き詰めれば意識は波長を出力しているだけだし、だとすれば、人とはたまたまそれを出力するデバイスみたいなことになる。

 

だからとて、生々しさは変わらない。

カニズムを知って薄らぐような感覚は、外付け。

 

寂しくはないが切ないとか。

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。