経験の外

 

 

本日は中身が喧しい。

無音の波にそんなにはしゃぐとは。

 

 

夢を見て、昔の夢と似ているものを見る。感覚の鈍麻みたいな系列の夢だった。自分が無意識の時に何をしたのかを責められる。酔いつぶれて意識飛ばして説教したという歴史はあるが、あの時はほんとに意識飛ばさないと生きいてられないというのはあった。今は美味しく飲んでいるし、知らない人と飲みたいとかもあまりない。分かりたい人とは、というのはあれど。

 

立ち読みした本で、ビール党は知的に鈍重でワイン党は鋭敏だという話があり、たしかにそうかもしれない。鈍麻させるために呑んでいた節はある。今もややセーブかけているのか、んなことはない。

 

脳が小さくなって色々鈍くなるというもない。記憶とされる領域では、むしろ今の方が自在。

モバゲー時代のスキだった人、マリア(当時高校生で流行っていたギリシャ文字表記だったか)さん、桜月さん、カオリさん、ロコさん、あと現実でもちょっと関わった人も居たか(名前がさっと出てこない)。カオリさんは退場するときに手術をするのだと言っていた。

 

味覚も薄味が美味しくなっている。アルコールはエンプティカロリーで、肴の味が濃くなりがちというだけという説。今日のメインの炒め物の味付けは粗塩と胡椒のみ。精製された食塩が悪いというのを読んだが、たしかに何か塩味に雑味があるというか、依存させる感がなくもない。お菓子買わないが、貰うとあっただけ食べてしまう。そしても胃もたれ

 

不健康だとされているものを避けて生きている人より、栄養状態は良いと思われる。もっと精査する余地はある。食塩でないちゃんとした塩を使っている醤油探しとか。なんでもかんでも自然由来が良いとまではしないが、体に合う物を採り入れるようにしたいところ。

 

 

記憶とされている領域に最も必要なのは努力ではなく、遊び(余白という意味も含め)と思っている。ホルモンで言えばドーパミンなのでは。あんまり知らないが、構えていると残らないし、構えていない時の方が色々掘り出されるのだから、構えさせて一斉にする義務教育があまり残らないのは仕方ない。一番の教育は周りの大人(環境)世界を楽しそうに採り入れていること。既知を伝承するのだから無理かろうが。

 

既知=経験則を考えるこの頃。

 

経験則の本質は、このいま生きている社会の共通ルールとして不文で従ってきた歴史で、これからも従って居ればだいたい正解という曖昧なものだとしてみると世界はすっきりする。

 

自己観とも連動していてややこしいのが経験則。経験を積んだから自分になっているという説。個人的にはこの観念は老化という生物的な移ろいを人格形成と連動させる幻想みたいな発明品であって、世界に対してもう自分が動かなくていい自分としているだけ。

 

これって、もちろん人に対する評価にも連動していて、自分がこういう人物だと既定できることが、相手は経験則上こういう人物だとレッテルシールを保持することになる。他人にぺりぺり貼って分類できる人生劇場。

 

僕がひねくれ者だったり天邪鬼だったりするところってここにあるのだと気付く。人の人格とか傾向を決め切れる人って、自分がもう決まっているとできる人で、いや、その評価ひっくり返せる人物ですがみたいな。決めつけられるのが嫌な人ほど決めつける不思議。

 

 

そうこうして、経験則ではない僕はずっと感じで生きていて、そこに気付くと世界はずっと拡がった。こんなに自在だったのか。

 

スピリチュアル系の感じはとても分かるのだが、僕は別に外に救いを求めていないから、神様もやってこない。不敬な輩と評判かもしれない。エネルギーの溜りは自分の中にある訳で、何か理由とか外の人とか、そういうところに救われるなんてことはない。

 

僕が本を日々読んで訓練(?)しているのは、接する世界を意識上で味わえるようにするためなのかもしれないとふと想う。思い出せなくても無意識が通しているから、どんな経験も一期一会だがそれでは物足りない。ワーキングメモリを使っている感でもなく、単に無意識の意識化するだけで、ほとんど無限の新規情報が自分の中にある。これの延長がアカシックレコードなのか、はて。

 

ノルウェイの森で、エウリピデスの演劇には、デウスエクスマキナという登場人物の人生を交通整理してくれる、神様が出てくるらしい。運命でもなんでも良いが、神秘的(でない単なる)現象をこういう他責にする感覚は誰にでもありそう。そんなの選んでいないって。

 

でも、準備はどうなのだろう。

 

僕の人生が楽しくなってきたのはこの辺り。無理しなくて良い人生劇場。自分を決めていないから運動は怠らないし、人と接するときも相手を決めなくて良い。印象で言えば、人はだいたい幼い時分から動いていない感じ。でも別にそれはそれで構わない。

 

僕の人生劇場、何周目かではないかという想起。

輪廻転生も化学的に説明できる時代になったらしい。感じって脳内の分子の配列であって、その配列を受信できるデバイスとしての脳は次の世代でも起きうる。

 

 

経験則が適用されない世界って、別に神秘だけでもない。

数学がそれで、分数の割り算とか複素数平面とか。でも人間はそこでも思考して生きられる訳で、必ずしも生身と連動しなくても良い。

 

まぁ、生身が感じている感じを意識が全てフィードバックで吸収できる訳でもないが。

だから、自分の存在が揺らぐ。

 

さておき。

 

僕が好きな人というか、好きな作品というか好きな文体。

 

結論から述べれば、人物像が既定されていないこと。普通の生身の人を捉えるとき、この人がこういう人物だから、次はこの行動をするということは予測できるだけであって現実ではない。経験則ならそうなるかもしれないが、そこを外れたときにもその人を当人として認める度量があるかどうか。

 

要は自他にどれくらいの自在があるか。

 

なくても良いならそうすれば良いが、そこに神様を持ってくるのははた迷惑な感じがなくもない。

 

という感じで僕はどうやら世界線を移動してきているらしく、これからどうなるか分からない繋がりでしか関係がない。これが本来の関係よなって。いつ離れるか分からないし、ただ間で遊ぶ。

 

自分のことをコントロールできていると思い込んでいる人はあんまりよろしくない。

 

はい、おしまい。

 

おやすみない。