地続き

 

 

AIをかいくぐって誰のおすすめにも出てこない文章は書けるのか。文体なら無理だがおそらく単語でデータ取集しているだろうから、やろうとすればできるかも。まぁ、やったところで意味はないが、意味がないからこそ良いとも言える。

 

 

さておき。

 

昨日の日記で経験則が悪いものみたいな話になった気がするから、少し捕捉から。

 

経験が体験を経たこととすると、経験自体が大事なものであることには変わりない。認識の前提になるものであって、経験なしには経験の外も見えない。体験を経てだんだんと探索範囲を拡げていくしかない。

 

ただ、経験から抽出した規則である経験則に、経験の外にあるものを現実としないのはもったいないという話のつもりだった。だって、最初の体感は経験の外にあった訳で、規則がそもそもないところで経たもので、それにより既知としての自分が創造されている。この時点の自分は受動的に創られた存在なのではしたいところなのだが、如何だろう。

 

個人的に規則と言えばカントさん。美学、哲学、なんなら数学の本にも出てくる、いまの人の意識観を創設した神様みたいな人(僕は神様という言葉に畏れ多さを含めていない、念のため)。僕はこの人の純粋な理性の限界(純粋理性批判)の考察について、素朴に疑問に思うところがあって、これが経験則という既知の保持にも繋がっておるなぁという感じ。

 

カントさんは、人の認識が何故拡がるのかということを考えていた人(読み取った限り)。で、アプリオリ(経験の前にある)認識について、人は経験する前に時空の形式を持っているために、認識を拡張することができるのだという説っぽい。

 

たしかに、人は時間と空間の中に生きているし、脳もそういう風に世界を観ている部分が在るのは確か。数学世界で言うと、-1×-1が1になる意味を数直線においてiを導入することによって空間の移動として認識できるようになる。

 

でも、時間と空間についての物理学が発展してきた後でこれを考えると、素朴には納得できるとしても、この素朴自体が、アポステオリ(経験の後)に作られた認識という風に見える。カントさんの時代に物理学がどの程度発展していたかは知らないが、数学や物理学自体がそもそもアポステオリの時空観から地続きに観念化された世界のような。

 

素朴に体感する世界(現象)を数式で表現することから認識が拡がってきた世界であって、認識自体が拡張されたのは、もともと形式がある訳ではなく、形式とは無関係・無関心にホップしようとする感じがあったからではという気がしている。意志という志向性は対象が認識できないと働かないものだが、人類史で人間の認識を動かしてきた人が当たりを付けていたとはどうも思えないし。

 

時間の相対性とか空間把握の曖昧性(脳科学)の発展を経た後であればカントさんの見解も変わっていると思われる。

 

感じとしか言えない何かが人の認識を拡げるというのはあくまで僕の体感なので、一般化はできない。一応、一般化にあくせくして、自分のことが気に食わなかったから移動をしているとか解釈していたのだが、今や、気に入るとか気に入らない、の対象でもなく、この僕で存在できることが楽しい。

 

この世界をてらいなく捉えられるようになっている。

感情としての生理的嫌悪感は誰かが嫌悪したからその嫌悪が正しいという風に倣った所作。いや、蓮コラは脳的な生理か。

 

やれやれ。

 

努力からの卒業。

 

ノルウェイの森の下巻は永沢さんがハツミさんに対して意地悪くあたる会食のシーン。永沢さんの存在って、現実界に居そうで居ない、寓話的なものなのだろうな。自分と他人を切り分けて、自分のことだけ考える。これだけだったら在りそうだが、永沢さんは自分を突き詰めることを努力と表現する。外国語の取得と女性を口説いて寝るのが等価の自分の可能性を現実化することを努力とする。

 

目的意識というアプステオリな生き方であって、社会貢献上はとても良き存在だとは思う。国家権力の中で人類を発展させる傑物として。

 

ただ、僕の運動はこういう意味合いにおいて努力ではないよなというところ。感謝の念とか、交換の観念はあるし、だから貢献みたいな念はあるにしろ、自分の可能性に志向性を持たせていないから、努力はできない。

 

あと、ノルウェイの森からの卒業と想うのが、寝たりえっちぃことをしたりの女性との関係はまだありうるとして、永沢さんはワタナベを巻き込んで、自分達は自分が何を考えるか、何をするのかしか考えられない人種なのだと評するところ。反対側のハツミさんは、経験則上の観念を前提にして語る。好きな人が居るのに他の女の人とは寝なくて良いじゃない、我慢すればとか、お嬢様大学の経済観念から学食で安いメニューを食べているのだよーって。

 

 

僕は、割と自分を突き詰める傾向にあるが、それとは別に他人の考え方とか認識が勝手に気になる。最大の神秘は個人だから、神様より他人の認識が気になる。んでもって、その他人が僕に何かをもたらすかどうかには無関心だから、どこまで気になるかには恣意性がある。

 

人の退場に悲しみだしたら、際限がない。

 

人を意識するのは、その人の動きに反応できることで、それくらいの余白はある。

世界に対する意識も、思想上でやっているだけであればなんの拡張もなく、ちゃんと動かないとバーチャルにしかならない。

 

どうでも良いが、自分のカラダについて幻想観がある人は、目をつぶってお風呂に入ってみれば良いのでは(実践している)。視覚のガイドがなくなると手探りでしか位置を把握できないが、まぁまぁ記録されて、面白い。

 

 

 

はい、おやすみなさい。

 

良い夢を。