穏やか

 

 

 

心が弛緩し過ぎて6分の寝坊。完全に意識を手放していて1日と6分経っていたとしても納得できる安眠量。このおかげか、本日はなにやら活力が凄かった。お風呂読書で体感80分くらいは読んだかなという量だったのに50分しか経ってなかったとか。惰性に任せていてはいけない。

 

クローニングも少しずつ進んでいる。本では1からインストールにするようになっていて、既に最新版をインストール済みだから何か悪さをしているような感じ。改善方法わからないが、手探り状態が楽しい。

 

夜ご飯はもやしのナムル、豚肉、ほうれん草、新玉ねぎのコンソメウスター炒め煮。

美味しい。ナムルちょっと濃味になったが、まぁいいか。

 

 

さておき。

 

色々と気になることが現実にあったがここは書いてもしょうがない(どうでも良い)。思索とかの内側の言語も個人的にはどうでも範疇だが、ここは書く意味とかではなく、「お裾分け」みたいな感覚にしておかないと書けないなと想った。いったい何をお裾分けしているのだという話だが、要らなければ拒絶できることが言葉の良いところ。

 

気を抜くと引きこもりになって、内側で楽しんでいるのが僕の素朴だった。説明しろと言われると言語化できないが、自覚できていることより遥かに内部は諸々認識しているし分かっている。自覚的に考えるということもしてなかったな。問題があるとそれについて楽しんで解いていたし、無自覚的な知識に任せていた。

 

僕が説明をすることが苦手だったのは、分かってないからではなくて、それを現実化する挙動が知ったか振りというか、知っているというポーズになるというところだったように想う。あんまり一目置かれたくないというか、そういう場所に居たくなかったというか。中学校の同窓会で国語の先生に、院に行っていると言ったら「○○くん、そんなに頭良かったっけ。」と言われたのは、ポーズとして成功していると言える。

 

今の仕事は問題解きつつ人に発話で説明するタスクがほとんどなのだが、よくもまぁそんなこと覚えているなと眺めている。相手の語彙とか理解力とか発話の速度に合わせているし、こんなのいちいち思考してできるようなことではない。空間を隔てた電話というメディアで相手のことを捉えるのは五感を越えている。こういうのが単なる「感じ」に集約される非言語。でも普通に人はここを用いているとも思う。意識されないだけで。

 

 

文章でも一昔前、「モテる風に書いている」と評されて、若干嫌な感じを含みつつ、へーとなった。ふつうに書いているだけなのに。今やそういうのは全くないはず(知らんけど)。そこに包含されている意味も詰めた訳ではないから定かではない。善人ぶっているとかそういうことだろうか。

 

たしかに、僕は人間の本質は動物的な闘争を越えたところにあると思っているというのはある。ただ、歴々の思想家が説いてきたような「道徳的善性」とも違う。道徳的善性は社会という一定の枠組みを上手く回すための心得を内面の当たり前にインストールさせようとしている感じがあり、性善説性悪説も正直しょうもない。

 

信号待ちで道路を眺めていてふと想う。世の中を見渡してみたとき、協調無しにできている人工物は無い。経済的な競争とかはあったとしても、種類ではなくその物自体は、複数人の人が同じ目的をもって協調しないと完成していない訳で。素朴な集落とか都市とかもそう。発明品のアイデアは天才が構想したとしても、物に成るためには協調が必須。

 

人は1人で生きられないというのは、誰かと関わっていないと無理だという意味ではなく、こういう協調の歴史の上に生きているということでは。

 

競争を含めた全般的な争い(国家間も)が、人類に必然的に付着しているというのは素朴な本質というより、後付けのインストールなのではという感じがある。これが本質だったとしたら、もっと世紀末覇者みたいな世界になっているはずだし。

 

だって、人に勝ったところでどこに行けるわけでもなくないか。勝利が達成感、何かそぐわない。そういえば麻雀でも全然勝てなかったのは、魂の願望ではなかったのか。人に勝っても全然楽しくない。アリのアプリでも他人のアリ塚に攻撃するタスクはこなさない。

 

高次元の話で、愛の源に負の感情はないという話があったが、たしかに細胞レベルとすれば、多細胞生物(人間も)は単細胞生物が集合して協調しているから成り立っているわけで、喧嘩していたら生きていけないという意味で一致している。

 

人間関係の個別性は別に愛とは連動しておらず、という素朴。僕の好きは、好きになれたことが大事であって選ばれるかどうかも関係ないし、僕と無関係に楽しんで生きていてくれたらそれで良い。自分に何かできたらという節もあったが、これも後付けインストールの観念で、本当はそんなこともどうでも良い。何かしてあげていることが愛の証明になる訳ではない。結果ではあるとしても。

 

たしかに、時間は交換することができないものだから、時間をかけることに価値があるというのは分かる。でも、そもそも時間に価値をおくというも何やらおかしい。価値って何か比べる対象があることが前提なのだが、自分の時間という指標で見たときに、これをするときには価値がある、仕事には価値がないという分け方をしたとして、明日隕石が落ちてくるかもしれないとなるとどうなるのだろう。

 

おそらく、時間は続くものだという前提があってチップみたいな感覚なのだろうが、本来は交換価値がないものだと思われる。ただの移ろいであって、その中でどう生きるかが問題。

 

雑になってきた。

 

自分の「感じ」に従って生きることにしたところ、既製品の価値観のほとんどは気にしなくて良いよなとなった。そんなことより、自分の中の素朴な価値観をきちんと扱う。もちろん誰かのも。

 

はい、寝よう。

 

おやすみなさい。

 

何かがお裾分けされていますように。

 

良い夢を。