超の意味

 

 

いっそのこと言葉の全てが虚構と読まれると良いのに。

 

 

ひたすら眠い1日。昨日の疲れなのか脳内で整理が必要だったのか。筋肉痛にはなってない。何も考えていないようで何かが中で動いている。名前を付けるとすればほのかな寂しさなのだが、悪くはない。

 

お風呂読書の食べ合わせが良い。ついでに本日のメインで作ったトンテキ用の肉と春キャベツとしいたけの組み合わせも美味しい。

 

ちなみにシュールレアリスムの受容と「崩壊」ではなく「変容」だった。そらそうか、日本にこの思想がどのように入ってきて、どのように日本独自の変遷を経たかという話だし。人の名前を覚えるのも大変だが、本のタイトルについては覚える気がほとんどない。作者に対するリスペクトは当然あるが、人に説明できるようにタイトルを保持する方向ではなく中身を美味しく頂いて消化(昇華)する方に向いている。読書家っぽい自分を説明できないことになるが、何の不都合もない。

 

食べ合わせシュールレアリスムの起こりが終わり、日本にどう輸入されたかという話。「超現実主義」という訳は何か語弊が生まれそうな感じ。だって、既存の規範から離れたところで思考したとしてもそれは現実に還ってこないと認識されない訳で、現実を超えた後に構築される現実を見ていたのではというイメージが沸く。

 

こういう外国語の概念の翻訳問題ってどの学問にもあるのかもしれない。法学で言えば、法学部の学生が最初に引っかかるであろう、民法の「善意」と「悪意」。よく「善意の第三者」というフレーズが出てくるのだが、これは親切な他人という意味ではなく、ざっくり書くとある法律関係を認識せずに関係に入ってきた無関係の人のことになる。「悪意」は反対にその関係を認識した上で関係に入ってきた人という感じ。ただ、日常用語としての「害する意図」という意味でも書かれることがある。

 

なんで善悪が出てきたかは定かではないが、その第三者が保護されるかどうかを問題にしているのかも。法律上の関係において知らないということは保護に値することがある(=善)。また、知っていた上で入って来たのであれば独立して保護する必要はない(=悪)。認識に割と重きが置かれている天秤という道具。

 

あと、数学の虚数も、日本語で読めば本来存在しない数みたいになるが、英語だとimaginary number で、想像(創造)した数になって、こっちの方がしっくりくる。まぁ自然数だって自然に存在すると言えるかというと微妙なところ。

 

シュールレアリスムに戻ってきて。提唱者のブルトンはなかなか激しい人だったと読める。既存の美術賞を受賞した芸術家をシュールレアリストから脱退させたり、ダリもそうなったりとかなんとか。

 

僕は専門家でない。だから、好き勝手に思索できる。もともとの定義である「既存の価値規範から離れた思考の書き取り=自動手記」がフロイトの夢判断から来ているとのことで、もう少し掘り下げてみる。夢は無意識で構成される世界であって、主観的なものさしがほとんど効力を持ちえない領域。そこを記述する言葉を自動的なものと捉えるのは分かる。まぁフロイトさんはほとんどをリビドーに還元してしまったが、無意識の世界には性以外の属性もきっと含まれている。

 

こういった、夢(≒無意識)の世界の情景を言葉で書きとるという意味合いから定義を再度持ってきたとき、何か超常的な言葉ではなく、今風に書く所の「『自己検閲』なき表現」方法を模索する思想なのではと解釈される。検閲の道具は社会規範以外にもあるが、芸術とはこうあるべきであるという全てのものさしに対抗する、みたいな。

 

哲学少女は院でこの思想を研究していたとのことで先生(また1人増えた)。先生曰く、『現実認識の方法』という説。これは僕が捉えたところとも近い。書き取られた言葉に表現された世界は次の現実になる。

 

枕詞の「既存の価値規範から離れた」というところを切り取ると、某個人的にあんまり評判よろしくないニズムにも結合しうるし、「思考」という後の言葉を切り取ると、合理主義者にも近くなる。日本に合理主義者ってどれくらい居るのだろう。個人的には「合理性」も今や社会規範の1つではないかと思っているが、行動経済学で言うところの限定的な合理性(なんとなくの損得)を合理だと思っている人は多そう(多いから学問上の定義が成り立つ)。

 

まだ日本に輸入された後のことは読んでいないが、日本人の中で「思考」ってどういう立ち位置だったのだろうな。お約束的な風潮というか風土の中で、そのもの考えることができるというのはなかなかの変人しか居なさそう。夏目さんとか。

 

僕はこんな感じで、特に何の主義も思想も持ち合わせていないから、思索において自分という支障がない。立ち位置を決めない弊害は一貫した言説ができないということになりそうだが、僕はそれほど自分の一貫性とか統合性を信じていないしそれでも特に問題ない。たぶん文章を読んでいる人にとっても、僕に芯がないということは読み取れないはず(知らんけど)。自分の立ち位置を保持する為に、何らかの既存の思想を持ってくる必要はない。

 

食べ合わせといえば、「海辺のカフカ」でそりゃそうだという感じもある。エディプスコンプレックスももちろん、フロイトの無意識世界が下敷きになっているのだろうし。意識が感知できないところで起こることは現実なのか。

 

甲村図書館に大嶋さんが言うところの「虚ろな人」が現れる。今この書籍が出たとしたら某ニズム団体から作中以上に猛抗議だろうな。男女共用のトイレしか置いてないのはけしからんとか、男性著者が女性著者より前にあるがけしからんとか。個人的はこのニズムが、性を固定する方向に向かっていると思っており、なんだか目的は何処に行ったのだという感じ。

 

主義はだから怖いんだよな。主義に基づいた世界観が自然になってしまう。

 

自然とはそもそもなんぞやという話だが、あれ、何か検閲が入ってきた。

 

まぁ良いか。ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。