硯を磨るまま

 

 

言わなくて良いことに意志が宿る。

 

 

月曜は休みだったが土曜が出勤なので仕事の日数が変わらない。しかし、何やら元気だ。この活気は高校時代のマラソンの後の感じに似ていると想う。きちんと本気で走ったのだが、終わってみるともっとやれたと体が訴えてくる。もともとどう切り詰めても脳がセーブをかけているのだから、使い切ったと思っても余っている。惜しむと逆に疲労が積まれる。ただし、セーブの機能自体が低下する睡眠不足はよろしくない。

 

運動と言えば、高校の部活の最後の大会だけ1回勝ったのだった。メンタルもなかなか使い切った日。もっとメタ的にやっておけばと思わなくもないが、当時の部室に置いてあった硬式テニス漫画は「ラブ」だしなぁ(これはこれで名作)。「ベイビーステップ」が置いてあれば随分と違っていたかもしれない。

 

さておき。今に戻ってきて。

 

余剰と言うか余力というか懐、器みたいな話。

 

顧客が固定層が多い仕事だが、通話でのやり取りしかないため、案内内容以外が定型文で終わる。ただ、本日、あるお客さんに案内を終えて切電しようとすると、「どうでも良い話をして良いですか」と言われる。柔らかな感じの人だが、そういうことを言いそうな人ではないため、少し身構える。

 

何かと思ったら、「○○さん、何年目になるのですか」、「3年くらいです」、「私、○○さんが入った頃のことも覚えていて、上から目線では決してないですが、かなり進歩しましたよね、私は劣化していくばかりで」と。

 

こういうのが嬉しいって名札がつく感情なのだろうな。入った頃のことも覚えていて、、というところには思わず、「拙くてすみませんでした」と返してしまったが、最終的には「励みになります!」と使ったことない言葉が出てきていた。それを言った自分をメタ的に眺める自分が、「陽の者みたい」と呟く。こういうことを誰かに話したい。

 

僕の中での陽の者はギラギラしていて熱量が無軌道に漏れ出している割にあんまり周りのことを考えていないというか。僕のイメージする陽の者の典型は集団歩行で、後ろから追い抜く人とか対向してくる人が全然存在しないように見える。そういうの見ると、真面目に認知機能大丈夫かと思うのだが、実際そういう人が現われてから対処できれば問題ないのか。

 

こういうのではなく、「ただ眩しい」という意味の陽というのもありうるかとなった。このお客さん、自分の劣化の比較的に僕のことを褒めてくれている感じはなく、ただ成長が嬉しいという感じの声だった。目が細まっていたに違いない。

 

一応、最初があまりにポンコツだったからここまで伸びしろがあると期待しておらず、びっくりしたという筋もある。たしかに僕は人と話すことを苦手としていたから、ありうることなのだが、喫緊の変化で、どうしても物事を卑屈に捉えられなくなっていることに気付いた。

 

別に物事の良い側面だけ無理に見ようとする光に集まる虫みたいなことではなく、卑下は結局内側の問題でしかなく、そうであるなら見えても注視する必要はなかろうというところ。

 

人って何かしら悪いことばかり言葉にしがち。嬉しいとかありがとうとか、あんまり言わないというか世界を構築する言葉になってないのではという世界だった。社交辞令的な外用の慣用句ではあるにしろ。哲学少女が僕と挨拶の言葉を交わすことを「時間の位相が異なるものが一体になる感じ」と評してくれたのだが、たしかに挨拶の本質ってここであって、義務的に交わすものではない。

 

ここにあるのは善い言葉を唱えようという意味ではない。自分の中にあるそういう感じを見てあげたら良いのではという提案的なだけ。中身が無いのに箱(言葉)だけ繕っても仕方がない。

 

あくまで僕の話。

 

人である以上当然、陰も陽もあるのだが、陰の方にばかり生きていたような感じがある。もともと僕の中には自分が好きも嫌いもないのだが、自分が好きだったら相手を害しても良いみたいな曲解があって、バランスがとても悪かった。出逢った人の何人かがもっと自分になれとか、もっと笑えるはずとかアドバイスしてくれていたことの意味がやっと分かってきた感じ。

 

もっと動ける。

 

仕事の時間が短く感じるのも能動的に楽しんでいるから。

ここでの「楽しい」は、自分を変更することに向いていて、やり甲斐とか意義とかの話ではないし、知識を集めてコレクター趣味ということでもない。

 

あえて言葉にするのであれば、世界における可動域が増えることを楽しんでいる。

 

こうなってくると、やっぱり時間制の仕事が物足りなくなってくる。

試験に受かるとか受からないとかとは別の方向で、たぶん動くのだろうな。

 

 

冒頭に戻ってきて。

 

言わなくても良い言葉が人の本質を表わすのだろうなという世界観がある。必要なこととか大事なことは、意志が無くても出てくる言葉であって、あくまで定型文。

 

言わなくても良いのに一言多い人は煙たがられるからあまり言わないようにしているが、この価値観自体が制限だったと気付く。

 

本日のお客さんもそうだし、インターネット世界で言えば、「こんな良い文章を書く人がその辺のバス停に居るなんて面白過ぎる」とコメントしてくれた人類の人とか、僕の日記を読みたいとやんわり表現してくれた詩人とか、まさに言わなくても良いことを僕に書いてくれた。

 

宵顔さんも。書かないけど(どこかに書いているが、ここでは独り占め)。

 

こういう世界観だから、僕は用意した言葉を持ち合わせていない。相手によって発する言葉が変わる。自由度を制限されると定型文しか発することができなくなるが、許容してくれる人であれば、言葉はきっと尽きない。

 

なんだか自分の世界観がすっきりしてきて快適だ。

 

言葉に囚われるという現象も、言葉が重みをもった物質だとするからだが、ほんとうの問題は、言葉の前にある気持ちだと思われる。気持ちが現実的でないなら、実践的運動でも良い。

 

エーリッヒフロムの「愛するということ」に愛について書かれている。個人的に愛は技術であるという言には賛同できるが、愛の種類についてはなんだか既存の定型な感じで、いやいや、実践であるなら概念でなく運動で突き詰めればと思う次第。そういう型の問題ではないだろうという話。

 

そういえば、プラトンイデア論を提唱したのは人の中にいったん作られた概念の型が経年で劣化しない強固な対象だったからなのではないかと職場の便座に座っている時に発想された。

 

明日も仕事なのでここまで。

 

進んでいるのか戻っているのか分からない。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。