陰陽

 

 

 

通常の生活帯に戻ってきた。体調もなんとなく回復。まだ水分補給が足りないと言わんばかり、会社の自販機で水を買ったら当たってもう1本。気を遣われている。笑

 

特にお叱りはなかった。あの後転んだのかってびっくりされていたから、たぶんニコニコしながら解散して、帰り道にゾンビのように糸が切れたのだと思われる。人格を繕っているのかどうなのか。まぁ別にもともと害意をもって人を見てないが。

 

まだ少し痛い部分はあるのだが、なんとなく解放感がある。何が要因かはさっぱりだが、たぶん楽しかったのだろう。よろしくない呑み会は二日酔いより遥かに嫌な感じが居座る。今回はとてもさっぱり。何かぴったりもしている。なんだろう。

 

 

季節感にはあまり追いついていないというか、生活圏の桜はとても綺麗だなぁと見るにしては、あまり何かそういうスポットに行く気が起きない。儚げな美ではないものに美を見るようになったのか、よく分からない。花びらが舞う景色を誰かとぼーっと過ごすのは良いかもしれないが、1人では良いかなという感じ。

 

大学の2年目に当時の恋人さんと造幣局桜の通り抜けに行って、来年も見ようねと言ってくれたのだが、2年目はなかったな。

 

とか言いつつ、道中の田んぼの野草の移り変わりにうきうきしている面もある。白い菜の花のこじんまりした様な花がぽつぽつ咲いた後、本日みたらピンクの絨毯の始まりが咲いていた。ここから一面に拡がるまでとても早いから見逃せない。

 

(人があまり意識的に目を向けない自然美が好きなのか?)

 

仕事で顔の傷に言及したのは、一緒に呑んだ年下の上司と、同じく遅番をしている女性上司。大事な時期だから気を付けろと言われ、自身より心配してくれている。でも、気になった人は他にも居るのだろうな、なんだか気にならせて申し訳ないところ。

 

僕の日記の更新が1日抜けたことに対して何か想ってくれた人も居るのだろうか。こちらは意識的なものだろうから、申し訳ないではなくありがとうございますになるのだが。

 

痛みとか傷って外から見えればまごうことなき現実だし、外から見えなくても当人にとっては完全なる現実だろうなとふと思索。精神的なものも含めて。ただ、僕としては、この痛みは現実というより、痕跡という感じで、あんまり気にしていないらしい。最後まで残りそうな肋骨の痛みはお風呂に本の塔を運ぶときに主張してくるし、自分が転んだという歴史をひしひしと示してくる。でも、なんというか、痛みは痛みでしかなく、それによって現実をどうこう変更するようなものでもない。そんなものによって自分の今に影響させるつもりはない。

 

顔の傷には液体絆創膏を縫ってみている。めっちゃ浸みて、これぞ痛みという感じ。

まぁそのうち治る。

 

そういえば、健康診断の結果が返ってきた。オールAだわーって眺めていたら1つだけCOという表記があって何かと思ったら、「痩せ、栄養バランスを取って下さい」とのこと。いや、バランスは取っているつもり(弁当参照)ですが。今日は弁当作らずにオリジンで買ったが、オリジンのメニューはにくにくしい。揚げ物美味しいが、毎日食べる物ではないし、むしろ毎日食べたら太れるかもしれない。それにこの1食分の金額でベビーリーフ、豚こま肉、野菜炒め用、副菜用の野菜を買って余る。量はともかくとして、種類は毎日いっぱい食べているつもりだから、バランス取れてないと言われても困る。

 

という感じで、帰ってからも普通の1日として過ごす。

 

Pythonのコードを模写して、より書籍のタイトルがすっきり抽出できるようになる。

この会社の書籍、結構気になるものがあって脇道に逸れそうで困る。笑

次はデータを保存する方法らしい。

 

呑み会の時に、1人がコンピュータ系の専門的な資格を持っているらしいとのことを聞いた。その人が法律は全然分からないと言っていて、法律もアルゴリズムみたいなものですからと無意識に返していたのだが、たしかにそうかと再認した。文章化すると膨大になる非言語は所与のものとして言語で規定しているから、普通に言葉の意味だけ取っても解読ができないのが法。道徳的なものというよりは、共通認識(感覚)みたいな社会的な当たり前。

 

いずれ言語化してみたいところだが今日ではない。

 

そうして、「日本の最終講義」の次の章が「利子論」で、どきどきする。この日記で利子とはそもそもなんぞやが気になった延長で「性愛と資本主義」を買った経緯も書いている。今度はもっとダイレクト。マルクスの「資本論」では利子についてはきちんと書かれていないという冒頭。「資本論」は全部読んでない。ただ、利子にまつわる当たり前の感覚が馴染めないところではあった。当たり前とすれば、まぁそういうもんだで終わる話。僕はなんでそうなるのかが気になる。

 

銀行に預金した時の金利であれば、銀行は預金されたお金を他に貸して運用して利益を得るのであって、その利益を貸し手に還元するということで、一般的というか全般的にこの論理が成り立つかというと、よく分からない。個人的には論理ないし理性は1つの思索の道具でしかないと思っているため、あんまり合理的な人に寄られても。

 

 

シュールレアリスムの本で、詩とは「意識する方法」だというフレーズを見つける。

意識を非意識、現実を非現実に転換して、戻す表現。

 

非言語を言語として意識するときの方法の一種だとするととてもしっくりする感覚。

外化することがすなわち意識することであって、方法として諸々ある。発話とか行動とかが現実化の王道だろうが、意識としてこれをするというのはとても難しい。だって、ゾンビになっても自動的にできる。意志するのも意識しなくてもできる。

 

意志になると目的との兼ね合いになるから、目的の枠に収束された意識になる。

詩はたぶん、無目的に拡がった世界を意識すること。

 

これは詩でなくてもできうる。

 

はい。ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。