補充

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思索の小路、逸れる路地。居ない所に居続けることはできない。

 

 

昨日の日記に書いたように公園に寄り道した。桜が街灯に照らされて、その上にとんがったお月様が浮かぶ。暗いからかもしれない。地面が均されて綺麗だった。歩き心地も良い。

 

公園に至る道筋は帰りの最短ルートからはずれている。はずれている、ずれている、どちらで読んでも問題ない。どうせ逸れるのであればと、もっと前から最短ルートから1つ遠い路地を選択して歩く。異世界というか、視点が変われば知らない街だ。いつもの路地から、何か新しく建物とか駐車場とかできているなと思っていたが、道路自体も整備されていた。この辺りに引っ越せば職場が随分近くなるが、その分徒歩不足になるため一長一短。

 

仕事が終わってからこの日記(らしきもの)を書くまでの時間は我ながら割とシビア。プログラミングの写経を1つこなし(うまく動かなかった、畜生)、洗濯機を回し、夜ご飯を作り明日の弁当用のご飯をセットし、お風呂読書をする。ただ、切り詰めた時間の中でもほどほどに寄り道ができるというのは、おそらくとても調子が良い。おそらくというのは、何かを取り残しているような感じがあるため。いや、どちらかというと僕が取り残されていたのに居続けたのでは、なのに。

 

時間がないという感覚は、ほんとにない場合もあるにしろ、もっと肌感覚に近いものなのかもしれない。寄り道したことによってより時間が遣われた(減ったのではなく)触感がある。

 

 

さておき。

 

哲学少女が主観と客観を哲学していることに対して、ややこしいことを考えていますねと言ったら、硯の方がややこしいことを考えているとの評。意外というか、自覚として全然ややこしいことを考えているつもりがない。単に思索を拾ってきているだけの文章であって自戒では、もっと思考するようにしなきゃなと。

 

ここに書かれる考え事は時間の中で考えられた言葉ではなく、ぼーっとした生から自然と滲んできた言葉。

 

考え事が自分の中でややこしくなくなったのはやっときっと最近で、ナカにうごうごしているものは言語化したところで何かカタチになる訳でもないなという諦め。言葉は予言としては使い勝手が良いが、これは別の語用。

 

思考しなきゃというのは、まさに日常用語としてのもので、解決とか深く考えるという志向性。こつこつ考えるのが苦手であんまりやってきておらず、日記の考え事パートも、あさせでばしゃばしゃやっているだけだなという読み応え。思索の言語化にやっと馴れてきたきから、もうちょっと方向をコントロールしてみるのもアリだろうと。ここは散文だから、遊ばせている自分のホームページで集中させるのが良きかもしらん。

 

思索を少し。

 

昨日書いていた、言葉の境界線について湯船に浮かんできたうごうごの塊。

 

僕が言葉についてよくよく考えてきたのは、きっと言葉から自己を解き放つ為だったのだろうなって。言葉って遣うものだとされているし、たしかにそれによって疎通ができるとされているのだが、もう少し深堀りすると、何故言葉が通じるのかと言えば、そこには経験の前に習得された言語体系があるから。

 

で、この習得されたまとまりとしての「言語圏」は語彙とか語用の前に、世界観とセットとして形成されている。言霊とか、言葉に込められた歴史を知らぬ間に身に馴染ませる。言い過ぎにはならないと思う。世界は言葉(の意味)でできている。やたらと誤字とか誤用を気にする人がインターネット世界にはいらっしゃるが、これって親切とかではなく、世界観に不協和音が生じて気持ち悪いからだと思う。

 

こうしてみると、普段何気なく使っていると思い込んでいる言葉群は、それによって自己の世界が生産され続けているという意味では、言葉に遣われている、なんなら従属させられていると言っても良い。「すみません」ではなく「ありがとうございます」と言い換えるというのを何処かで読んだが、これは世界を意識的に変える試みでもあるのだな。

 

その上、自分だけの言葉という観念が人生劇場に存在する。脚本なのかト書きなのかストーリーなのかはともかく、自分の中だけに留められる言葉が在るみたい。個人的にメモも書かないし自分だけが読める文章もないから分からない感覚ではあるが、要は歴史から継承した世界観に自分の歴史の世界観が言葉によって重ねられる。

 

「自分」という言葉には、語義としてのものと、自己観としてのイメージの二重性があるとか。境界線。

 

言葉を文字通りに遣うことなんてできないし、文字通りに捉えることもできない。

 

という感じになってくると、言葉はやはり不自由である。

ここで、「海辺のカフカ」の大嶋さんが、人間は完全に自由になったら途方がくれるし、本来不自由を求めるのだという言がとても真を突いている感じ。

 

不自由なことに満足しつつ、自由になりたいと不満の言葉を漏らす。

 

僕は、なるべく自由になれれば然るべくだから、自分を言語として既定することをしなくなり、とても身軽になっている。言葉で決めなくてもアイデンティティくらいはあるし、誰かが見出してくれるし。

 

この先にもまだ何かありそうな感じ。

 

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。