哲学

 

 

 

昨日と同じ寄り道を通っているとケーキ屋さんを見つけた。来週末に個人的なイベント事があるからワインと一緒に買って帰ろうか。そのまま公園をスルーし、昨日とは別のルートへ。路地のロジックはだいたい何処かに通じているということ。玄関にまだイルミネーションが点いているお家があり、忘れているのか、毎日がイベント事なのか。後者の方がよいな。

 

 

 

さておき。

 

2つの方向から同じ番組で「存在と時間」が紹介された。たしか読んだ気がするのだが、さっぱり残っていない。僕もこの番組は好きだった、「愛するということ」、「徒然草」、「菜根譚」が面白かった。

 

存在と時間」が残っていないのはおそらく哲学書を読み始めた当初で有名どころをなんとなく漁っていたときだから。それまでは特に小難しい本は読んでいなかった。小説も日本の小説ばかりで時々啓発本とかも。時間だけはあった学生時よりも進行形で遥かに読んでいる。

 

ただ、哲学書を読み始める前にも哲学的なことは考えていたし書いていた。今よりもずっと徒然で断片的だったが、その頃、インターネット世界の文章を通じて本の師匠と出逢って、貴方みたいな人がおるよって、「ソフィーの世界」という哲学史の入門書を紹介してくれたのだった。ガイドに従って読む。哲学は呑みが動物の毛の中に埋もれるのを辞めて、毛の先に飛び越えることだという話だったような。哲学の歴史は学問史とセットで、認識できる可能な世界を拡げることにあったのだと思われる。

 

そういえば、シュールレアリスムは「認識の方法の1つ」とか、「ありのままに物事を見る」とかあったが、現象学もありのままの事物は何かということを問題としており、なんとなく近さを感じる。

 

そのまま、哲学にハマったかというと、そんなことはない。いくつか代表的な哲学書は読んだはず。いや、まだソクラテスは読んでないかも。あれ、ソクラテスが書いた文章って確か無かったのだったか。プラトンが書き残しているだけというのはどこで読んだのか。

 

あんまりハマっていないのは哲学の見解の中身は目新しいものだとしても、方法論としてはとても馴染んだものであり、新しい認識にはならなかったから。そんなに凄い方法とか賢い方法のような道具ではなく、とても素朴な捉え方。

 

昨日哲学少女と話しているときに、「存在と時間」の話題になって、哲学が読みにくいのは経験則から離れているからだよなーということを話した。ただ、いま想うと哲学は経験則から完全に離脱できるようなものではなく、ある意味経験を言語で精緻化する試みとも言える。

 

要は、普通の人が考えないようなややこしいことを考え抜いた変人の巣窟が哲学者達。僕もややこしいことを考えているつもりはないが、ややこしい変人であるのは確かだから、哲学者さん方には何やらやんわり仲間意識を感じている。笑

 

ソフィーの世界」で言う認識を拡張することと、個々の哲学者の見解である経験則の精緻化は同じ方向のこと。どちらにせよ、世界の見通しを鮮やかにしていくこと。曇ったままの決められた世界の見え方では満足できなかった変人(天才)が普通の人の認識を鮮明にしていく。

 

ちなみに僕は変人ではあるが、天才ではない。かといって、文章に書いているような人格を実生活で完全に発揮すると変わり者では済まないかもしれない。これも次のタスクの1つではある。

 

そういえば、言葉の不自由性のことを書いたが、哲学者も詩人もそう。あと昔の文豪も。既存の言葉から解き放たれている感じがある。認識を言語化するために自分で言葉を創り出す。カントさんとか同一言語圏だったらもっと面白く読めそう。たぶん共通感覚としてあった言葉から拡張した造語満載で持論を展開しているのだろうなって。

 

日本で言えば、夏目漱石とか正岡子規も言葉の発明化でなかったっけ。

僕は造語を作るより、既存の言葉のレトリック(さっき教わった)を活用する不自由さで充分。

 

なんだか、帰り道で起こった思索とは随分別の方向の路地に入ってしまったが、戻ってこよう。

 

もともとは、言葉には不自由があるが、だからこそ言葉が良いのだというフレーズ。

バベルの塔の神話も言葉が全地球で一元化される訳なぞないという空想の産物として読めるなって。

 

そもそも、人間に留まらず、伝える機能が不自由過ぎる地球の生物群。

もちろん、指示というメッセージ性で言えば、言葉もフェロモン(蜂)も機能としては充分だが、それを越えて伝わるメッセージになると途端に不自由になる。ちらっと読んだお友達のメッセージ性の話も入ってきているな。

 

僕が好きな言葉こういう指示ではない言葉であって、論理でもないし、文体が分かり易いでもない。でも、何かが流れてくる。これはそうとう言葉を書きつくって言葉を特別扱いしない運動のようにしてないと難しいのかもしれない。

 

このメッセージ性はもちろん言葉には留まらない。

 

社会的な辞令的な意味合いでもないし、行動と言葉が一致しているから流れてくるものでもない。

 

証拠がない、ある意味妄想的な世界観でしかないと言えばそれまでだが、人間が感覚できる物事は物証だけではない感じももちろんあるはずで。

 

個人的な感じの領域で、僕は他人にお祈りをするのが好きである。

皆良い夢を見て安眠できれば良いと祈っているし、なんなら世界平和も祈っている。これは僕が特に世界に対して願っていないから。ほんと今が楽しい。

 

で、祈らなくても何もなくても相互に何かが流れている感じに至る。

これを伝達とすると微妙なニュアンスになる。到達させたいとしていないし。

 

最後。

 

僕が本を読むことを辞めないのは、世界を鮮明に保っておきたいのかもなと思う。

頭をクリアにしておかないと色んなことが視界から欠落しても気付かなくなるし。

 

はい、おしまい。

 

平和でありますように。