虚ろが拡がるより早く無知の余白を見つけていく。
ここのところ、ローソンのキャラメルラテがお気に入り。缶コーヒーの味の雑さも好きなのだが、自分の素朴な好みに回帰するのもよろしい。本日は売切れだったためハニーラテにした。これもなかなか。そういえば、高校時代はパックの抹茶ラテをよく買っていたような。あれってほとんど抹茶風味がない。
素朴に好きな味に戻ると、甘味も好物だったということに気付く。甘い物をあえて買わなかったのは、甘味が代替(脳の栄養補給とかストレス緩和とか)に使われているとこが嫌で避けていただけで、本来はこんな奴だった。味覚の好みに偏りはなく、全方面の〇党を制覇している。辛いのも苦いのもすっぱいのも好き。ただ、これも刺激のためには食さない。味わいのため。
そういえば、中学校くらいの時に缶コーヒーをがぶがぶ飲んでいたら、コーヒーはそんな風に飲むものではないって言われたことがあったな。
感情の波には少なからず味覚も流用されているとしているのだが、共感される気がしない。あとは身体感覚も当然流用されている。自分の感情を顧みれば分かるが、それだけで独立した感情は存在しえず、必ず何かとセットになる。
結局のところ、どんな物事でも独立して存在しえないということになって面白い。
言葉が当てられるうごうごは手に取れるのだが、描写できるだろうか。
やれやれ。
昨日と今日と、仕事の空き時間(ほとんどない)に、民法の結婚制度、実子・養子制度の条文を眺めていた。今のところこういうの無縁なのに、せっせと制度を収集しているのがなにやら面白い。もちろん制度自体も面白い。自然的なパートナーの成り立ちとは離れているが、分娩については自然の要素もあり、養子に至っては完全に恣意的なシステム。一昔前こういうことを書いたときに、配偶者持ちの人が結婚も良いものだと明後日のコメントをしてくれたことがあったが、僕も別に制度を活用すること自体にはやぶさかではない。必要に迫られていないだけ。
ニュースでも流れているだろうから知っている人は知っていそうな、再婚禁止期間の短縮の話だけ書いておこう。これって女性が再婚できる自由を狭める制度で、男性と比べれば不平等になりそうだが、この制度は本来子供のためにある。子供の福祉上、誰が親と推定されるかはその後の養育とかで問題になってきて争いになると子育てがままならなくなるから、単純化しようというだけであって、自己決定とか意志とかの範疇ではない。変わるのは社会の常識の変化ではなく、科学技術の発展による。
制度と素朴は混同してはいけないと個人的には想うのだが、制度にかまけている人は多そうな。配偶者の悪口を言うとか考えられんのだが。意志でその法的結合を選んだのでしょうって。全体というか個別的な見識。
こういう当たり前に馴染んでいる制度って身体感覚と近いのかもしれない。
昼にハニーラテを飲んで一服する前、哲学少女と文通していて、声の話になった。自分に聞こえる自分の声は骨伝導で自己に響く音であって、外で空気を伝導する声とは全然違う。ここまでは普通だが、曰く、「そうなると身体的認知って信用ならん」という結論が良きだった。
この言葉が深層に響きつつ、諸々思索が捗る。
僕はもともと自己の身体的認知から自分のイメージを創るということはしていない。イメージされた自分像のままで動いたところで何も見つからないし、他人も含めた物事も然り。
そんな感じで生きていけるのかとふた昔前くらいなら思わなくもないが、身体的認知ってどうあっても今には追い付けないから、別に必要なものでもない。それよりもいま自分がどう動いているかを認識することが大事というか、楽しい。
この決めない楽しさの身体認知は、当然精神世界ともセット。冒頭とも繋がる。本を読めば読むほど自分が無知になる。無知だから収集できるし、収集することに尽きが無い。これは自分のことすら知らないということになることだから、ただ本を読んで知識をコレクターみたいに集めるのとは全然違う。
でも、集めることで、占有・所有しているという感覚も分かる。なにせこの世界は今のところそういうことになっている。このシステム自体を問うことは、今までの身体認知をぶっ壊すことになって、人によってはとてもややこしいことになるに違いない。
個人的なところだと、客観的に決まっているとされている物事(時間も含め)は主観の集積でしかないし、人は何かを正しく知ることなぞないとなっている。物事を収集するのは、それを知ろうとする過程でしかないから、分かれば分かるほど知らないことが比例して増える。
誰かに何かを説明(承継)する文脈では知っていると権威ぶらなきゃいけないシーンは社会生活上あるが、ここにおいて相手の文脈に分かるように説明しようとできる人もなかなかいない。だって、自分の為の語彙(感覚)しかないところに、別の説明なんて持ってこられない。語彙は身体的認知と近い。
この文脈の世界観で面白いのは、具体的な人に対してもどれだけ情報があったとしても知った気(所有)にはなれなくなるところ。怒りは起こるはずもない。だって、自分の人生劇場の中でコントロールできる存在ではないし、たまたま時間軸が合っているだけの知らない人。
ここを調律するためには、場以上の意志が要る。
情報が増えれば触れるほど知らない(知りたい)ことが増えるのが素朴なあるべき対人関係論。こんなこと、普通は起こらないのは知っております。どうでも良いが、知的財産権の制度設計って人類の発展としては悪手だったのではと思わなくもない。資本主義って基本的に滞りがあるような。なんで持っている物に価値があるとされなければならなかったのか。
まぁ、身体的認知は自己観ではなく、物事を捉える方向で捉えるところ。
ともあれ。
無知の余白は物事を捉える可動域。
「海辺のカフカ」が物語を越えたレトリック的に読めてくる。入口の石は石でなくても良いし、村上さんにとって言語化は全部レトリックなのではとすると、全ての文字がだったら何なのだのだろうって。大嶋さんは両性具有みたいな存在だし、ナカタさんは物語を進行させるだけの標識だし。
ちょっと生々しいのだが、この物語の予言は、「父を殺し、母と姉を犯す」ということだった。この犯すことがすなわちまぐわうこと。夢の中にしろ。
で、人が人を侵食することとは。
まぐわいに世界との結合を見出す人って少なからず居ると思う。
僕にはこれがなかった。まぐわいの最中よりその前後の方が楽しいし、交わった相手のことをより知れたということにもならない。
身体的認知としては一番近いのだろうが、個人的には、だから何だろうという感じ。
交わったことで留めることはできないし、生活と性欲がやんわり結合しているのも変。愛の行為ではなく、自発的な遊戯でしかないような。
侵食するのは、生活でもまぐわいでもない、巡り合わせという説。
はい、ここまで。
おやすみなさい。
ちゃんと生きていますように。