ゆびきり

 

 

天気も良くて暖かい。だから本日は引きこもることにした。

 

人間の醍醐味は自分の因果を順接と逆接で操作できること。天候は変えられなくても、天候に左右されずに自分の未来を決定できる。もちろん天気が良いと出かけたくなるのは、雨と比べて荷物が減る、汚れない。地べたに座れるなど、効率的な理由があるのは分かる。あと、一番は気分なのか。ということで、第一文は、「本日は出かける気分でなかった。」でも良く、「しかし出かける。」と続けていい。

 

こういうのが意志(思考の現実化で言うところの思考)なのでは。

 

意志的引きこもりで何もしなかったのが良かった。

あえて何もしない時間を作るのは、虚ろではなく余白が精製される。個人的な効果だと、思索の無軌道性が増す。

 

 

なんだか当たり前の冒頭だが、この結果(現実化)と原因の関係は分解されずにブラックボックスの「自然な流れ」として捉えられているなぁというテーマで思索が起こった。原因が規定されると、蛇口を捻るように結果が生じるという観念。この比喩で言っても蛇口を捻るのは他者ではありえない。

 

本文に入る前に。

 

プレゼントをくれた人は僕の文章を楽しみにしてくれているのだが、この文章を綴る行いを「日記のプロ」と評している。プロってなんだろうな。

 

ゲーム実況で、登場人物が「私たちプロだから」と発言した事に対して、実況者が「スポンサーが付いているのか」と言っていた。たしかに収益化という意味で仕事にするというのがプロの定義に含まれる。

 

ただ、最近文庫化されるような詩人の作品を読むようになって、詩のプロとは自分とは離れた深みから言葉を拾ってくる人なのだなという感じがある。味が違うというか言葉ではないものを表現することに昇華しているというか。ここからすると、ここでの「プロ」って需要とは無連動にエネルギー源がある人なのではという感じ。だから、続けることに外からのエネルギーが要求されない。

収益化も一理あるが、これは原因とは離れた結果的なプロだろうな。僕もマガジン化すれば結果的プロになれるだろうか。今のところそういった予定は皆無だが。そもそも金銭換算できることを書いている気がしない。

 

 

やれやれ。

本文。

 

発想をとっかかりにすると、読んでいる本群の中に横断的に該当箇所があることに気付く。

あ、そういえば、他の方の文章って引用するとき色を変えてコピペしているが、これって約束事なのだろうか。論文だったら注釈付けなきゃならんが、僕はあくまで自分の手打ちで引用したくてやっていない。他の文体が入るのも最低限にしたいし。

 

ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」に、「定義とは、ある言語を他の言語に『解釈』する論法だ」というのが1つ。美学の本に美的判断力と社交性の類似の叙述があったのも1つ。

 

夕方辺りに活動を再開し、民法の本を読んでいた。債権編のところで、債権の種類とか弁済とかの下り。メモは取らないのだが、いただいたボール―ペンの書きこごちを味わうためにちょこちょこA4用紙に関係図を書き込んでは捨てる。筆圧がダイレクトに反応してくるようなペン。ボールの部分が回転していることを意識しながら書く。

 

そうして、随分理解できることに気付く。これはおそらく自分と地続きの世界のルールとしてはではなく、一種の自分から離れた約束事として読んでいるからだろうなという感じ。僕の素朴のルールではないが、社会の最低限の網としての決め事として吸収している。ズレが分かるようになったから、物事を俯瞰的に捉えることができる。ずれているから採り入れないという自然は僕にはないらしい。

 

こうやって採り入れているのは言語情報を媒介とした概念であって、全体像でもないし、名前でもない。取り入れたものは結局言語化として出ていくことになるが、中にあるものを言葉ともできず。できるのだったら僕は言葉を書くことはないと思う。

 

ここで、芸術界の本を持ってくる。

共通感覚論で、「泉」(レディメイド作品)が出てきて、この作品は芸術という意味場を問うものとして意味があるという話。「場」には「約束事」がある。これは特に芸術に特有な訳ではない。本日たまたまTwitterで昔実況動画を見ていた実況者が妊娠していることをネタとして公開していて、場としてはめでたいことなのだろうが個人的に胃もたれというかグロテスク感があると思う僕はまさに「場違い」。「人生という場」にも「約束事」があって、それを問わなくても過ごせる人はそれでいい。

 

生活も場の一種だよな。外から決められた約束事がある。

 

ここからさらにウィトゲンシュタインさんを持ってくると、この個々の場における約束事って、定義としての論法であって、何かを言語で解釈した理念的な空間なのだろうなと思う。言葉にすることがすべからく解釈だとしてみると、この世界の決め事ってそういうものなのかとなる。

 

いつか人を変更するのは解釈だということを書いたが、人を維持するのも解釈。

現象を言葉で表現するとき(文章・発話・思考問わず)、人は世界を解釈によって進行形で決めている。解釈の指針はブラックボックス化されていて見ようとしないと見えない。可視化されたところで指針が変更できるかは当人の「遊び」による。

 

海辺のカフカ」が終盤で、この物語、時空がねじれている。ただ、これを読んでいて、そもそも人は時空をねじれさせないと存在しえないものだよなとなる。高次元のことではなく、自分が自分であるという意識が時間と空間のいまでないところにくさびを打って保っているというところ。自己意識のひな型がどこか別の時空にあるし、それを解釈で守っている。

 

そういう風に現実世界の人を解釈すると年輪が読み取れるような気がする。

人の中には過去の人格が内在しているし、自然の移ろいとしての時間からもともと離れている存在。

 

そうして、昨日の婚活のしおり。世界線の移動は自己解釈の異説みたいなものでしかなく、誰かとの共同生活をしている軸を想う。おそらく部屋が分かれていて自分の時間さえ保ってくれる人だったら大丈夫。協働の空間では料理は当番制で、好みに合わせて発展できる。

 

昨日、共同生活は維持するものではなく与え合うものだと捉えた。

だって、維持するだけなら1人でもできるのだから、楽しむために一緒にならないと楽しくない。こういう意味で僕は誰も欲していないのだが、人と一緒に居られない人でもない。

 

ただ、与えるというのも不十分な言葉なような感じ。

与えるという現実化は結果でしかなく、与えたいと思える感じをもたらす存在とこの刹那の人生で過ごしたいというだけ。交換されないといけないなんて約束事を持ってくるととたんに不自由になる。貰ったから返さないと思ってしまうのも何か違う。

 

人間関係はそういうものではない。

 

 

最低限の約束事以上の約束は、自分とするもの。

 

おしまい。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。