刷新

 

 

 

そういえば、造花のミニチュアの花束は「カモミール」だったらしい。花言葉は加味せずになんとなくのイメージだそうだが、個人的に「カミツレ」という名前の方がよく知っている。図書館戦争。原作・アニメ・映画と全部見た。影響でカモミールティにも一時期ハマったり。

 

有川さんの小説は植物図鑑が最初だったろうか。作中の料理を再現してみたり。「噛みません。躾のできた云々」。マイナーなところでは「ヒトモドキ」のなんとも言えない、ずれた人間性が面白かった。

 

なんだかんだ引っ張り出すと心の書庫にはいっぱい収納されている。人が情報では捉えられないという観念はこういうところにある。ある人が自分のことを情報として提示し切れるはずがない。これは記憶とか表現力とかではなく、原理的に。まぁどの自分情報に焦点を当てるのかによって読めるものもあるが、僕はこういうところでは人を読んでいないような感じ。

 

現実界で見れば言語情報として表現されるものよりも、体の動きとか「間」とか表情のような非言語情報の方が遥かに情報量は多い。個人的にはインターネット世界でもそうだろうなとしているが、想像の範疇に過ぎないからあまり書かない。

 

想像はするが妄想はしないなぁと想う。この違いは、その世界で相手が自分にとって都合良く動くかどうかだと思う。まぁどう動かれても楽しいという想像は妄想との境界線上にあって、どちらで表現するかは好みによる。

 

 

だいたい毎日、今日はもう結論じみたことを書いたからこれ以上言葉は出てこないのではないかと思いながら、ふつーに生きている限り言葉が尽きることはないのだろうなという想いもある。こういうのがプロなのかも。笑

ただ、この文章での語彙と現実上の語彙は随分違う。説明とか指示のために言葉を尽くす気がないから、仕事ではするにしろ、私的な世界では任意。

 

書いていると時々森の中に居るような気分になる。抽象的で比喩的な木々のざわめきとか、言の葉をただ眺めているだけ。こんなの、基本的に情報でない。戻ってきたとき言葉の扱いがちょっと分からなくなる。まぁ、1回はもっと突き詰めた方が良いのだろうな。日記という媒体だとどうしても帰って来られるところまでしか行けない。

 

ここで僕が行った大学も院も卒論が必須でなかったことが残念になってくる。

研究者こそ、当たり前を突き詰めてあたりまえでないことを持ってくる人達だし。

 

 

ともあれ。

 

本日考えていたのは、「世界は過去を現実としている」という命題。

言葉だって、どんなにリアルタイムであっても読まれる時点では既に過去で、書かれる時点だってそう。これは時間という間隔を間延びさせないといま(現実)にはできない。

 

発端は、人が自己の存在を確証するのは何をもってかというところで、まぁ過去というか人生劇場をどう過ごしてきたかだろうなと。だから、人の過去情報が気になる。進んで、人の年輪とかの属性情報も、過去に影響されない情報として過去を起点としているような。どれくらい過去があるかとも言える。

 

ここから、過去を証明するものを人は大事にするよなという発想に至る。

法学畑で言うところの証拠による事実証明は、常に過去に起こったことが事実として認められるかを問題としているし、なんなら、過去しか物証も人証(人の記憶を証拠とする)もない。・

 

もちろんそういう社会だから、何か起こったときの未来の為に過去を証明できるように備えるという価値観は当然。これは社会全体が常識(共通感覚)としての時間性を共通項にできているという意味で、人類史上は発展と言える。ほんとに皆が今しか認識できなければ、むちゃくちゃ考えないといけなくなるから、時短できるという意味で。

 

まぁ、でも有事にならない限り気にされることはないのも馴染みなのだろう。

子供が何時何分に言ったんだって証拠で遊ぶ(少なくとも僕は遊んでいた)のは、道具概念でしかないからなのだろうな。

 

ふつーに生きている最中に人が意識していることって、あんまり分からなくなってきた。生活を意識していたとしても、いまではないのだろうなとか。

 

僕はなんというか、常にいまになった。僕のいまにとって過去は個人的に大事だが、この大事さは証明とか共有される必要もないし、なんなら長く過ごした恋人さんがいま幸せに生きてくれている方が大事。

 

大事さとアイデンティティが分離されるのがいまに生きること。誰かの過去も大事だが、これも、誰かがいまそれを大事にしていると読めるからであって、過去をひっくるめた人格と接している訳ではない。

 

微妙なニュアンスの違い。

 

日記を書き続けているのは記録の為ではないし、人の文章も記録情報とは読まない。

自分のことも人もこともまるっきり知ってしまうことはできなくて、だからこの人生劇場が楽しい。

 

「知る」と「分かる」の違いは人生劇場の1つのテーマだったりするのだが、知らないことは何が分からないかが認知できないことだろうと想った。知らない世界として未分離の状態。で、知ることで世界は認識的に分離される訳だが、分離されたものは、世界の中で名前が分かれたというくらいの意味合いでしかなく、分解しようとすればいくらでも分からないことはできうる。

 

この世界観、とてもマゾヒズム性がある。だって、人生劇場に完成というか終着がないのにもがき続けなきゃいけない。どこかに世界観の完成を持ってこられる方が良いには違いない。

 

ただ、僕はどこかの時点に人格の完成があるという世界観の方がとても生きづらかった。なんで、更新しなくて良くなっているのだろう。

 

追加ではない。

 

この器で生きるしかなく、人の器を気にしても的が外れる。

 

 

はい、ここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。