流れ流され

 

 

昨日の今日で、また自分の部屋でないところで書いている。ノートPCと外付けキーボードとポケットWi-Fi(これは必須でない)さえあれば、場所はどこでも問題ない。この味を知ってしまうと、ほんと何処にでも行けるな。誰かと過ごすのであれば、このかたかたしている音と存在だけで問題ない人でないと難しいが。

 

昨日の日記は碌なこと書いてないなと思っていたが、読み返してみると、文字数が少ないだけで、いつも通りの悠々だった。

 

さっき、異世界(ただのシングルのビジホ)でもお風呂読書をしている自分を俯瞰して、何処に居るのかを問題としていないことが学習される。旅先の古書店で買った本でお風呂読書をして、そこから得た知見を徒然と書くのも面白い。ちなみに本日のお風呂読書は、持ってきたつくる君と、昼休憩時に最寄りの古書店を介していただいた本。存在感がある古書店って、人によって提供する本を変えるのだなという感じ。

 

この前書いた間テクスト論の提唱者の本。20頁くらい賞味したが、テクストが対話できであるという話がでてきた。ドストエフスキーの文章は、テクストの一部を取り上げて解釈するようなものではなく、もっと対話的であるのが本質だとのこと。この対話の軸が、歴史とか時代のスケールに耐えうるから、残ってきたのかも。どちらにせよ、テクストに正しそうな解釈はあったとしても、完璧な解釈はなく、もっと流動性がある。動かないように書くこともできるだろうが、そうなると経年の流砂に埋もれる(イメージ)。

 

そういえば、ここの机も結構高いのだが、一度馴れてしまえばなんとでもなるな。人間の適応性はそんなもの。惰性の方がコストカットだか変化に一瞬だけ反応する。これは刺激だったり、拒否感だったりする。いつもと同じようにタイピングしないようにすれば良いだけ。

 

 

さておき。

 

予定がほとんど転調してしまった誕生日前後。今は1人ケーキを食べた後に楽しく日記を書いて既に寝ている予定だった。でも、転調しなかった世界線も良きとして、この世界線も良い。世界線を比べないのが楽しく生きるコツ。

 

仕事は休みそうになったのだが、きっちりこなした後、ご飯を食べてヒッチハイク(レトリック)をして、「海辺のカフカ」の逆の道中のようなところ。入口の石がありそうな街に居る。

 

ここがどこかというと、つくる君の実家の近く。つくる君の悪手は正しい居所を世界の中の他者との繋がりに求めたことで、僕の今の世界観だと、居所は自分の中に在るものであり、他者がどうであるかとは別物。もちろんだからと言って蔑ろにすることはない(はず)だが、世界観が違うところに生きている人の視点にとっては、僕はとても傲慢で冷淡に見えるのかもしれない。同情ができないのはその人をきちんと存在として見ているからなのだが、それによって他人の価値を測る世界観の人も当然アリである。

 

約束としての関係とか繋がりは欲しておらず、ただ、この人生劇場を楽しめる人。

寝ている自分の姿は自分では観測できないし。曰く、ずっとくっついていたらしい(蛇足)。

 

つくる君繋がりだと、嫉妬心と、希死念慮が相殺されたとのことで、僕はどちらの感覚もあったはず。ただ、いまやそういう感覚が無い。人は自分の世界に居てくれる存在であるという安心感は惰性でしかなく、どれだけ約束とか関係を構築したところで世界線がズレれば居なくなってしまうとすれば、人を保持できるという感情自体が創作物みたいな話になる。

 

 

どうでも良い世界線だが、職場の自販機さんが空気を読み過ぎる。この前の呑み会後のもっと飲めという当たりも然り、今回は昼休憩後に当ててくれて、なんだろうと思っていたが、きっと、このホテルでの水分補給のため。笑

 

都合の良い世界線を設定していないからランダムだが、ランダムの揺らぎがとても丁度良くなっている。世界線の揺らぎって、きっと人生の分岐みたいな重大なところでしか意志(意識)されないが、もっと微々動いている。

 

あと、現実世界の仕事とは別にここで書くことを仕事にしている節がある。

哲学少女に後仕事(ここで綴ること)があるのでと言うと噴き出されてあまりうまく言葉が出てこなかったのだが、仕事の本質は対価とのセットではなく(これなら契約)、余剰の分配としている。家事労働が意識されてきたのもこういう定義なら分かるような。

 

まぁ、なんの糧にもならない文章なのは知っている。

余白の精製にはなるかも。

 

そうして、人の本質。

自分の置き所として、素朴に自分を表現できる人はなかなか居ない。居なくて良いようにしているのが常識的世界観の個人の希釈化。普通であるという自覚における存在の表しが、本当に当人を示しているのかは分からない。僕はこの辺りを一致させようと試んでいるから文章体である僕と、現実体の僕は一見全然違うが、感じで捉えればそのままだと思われる。

 

言語表現で自分を表し切るなんて不可能であるということは誰も教えてくれない。

僕は言葉が当人を示しているという世界観でやってみたとき、全然違って諦めた。

 

やれやれ。

 

起きてからの直近の定めとしては、熱田神宮。かねてから行きたかったが、この軸で来たかという感じ。いつでも行けるわーと思っていたら、意志でしなくても行けるようになった。

 

あとはアイス屋さんだが、この軸も面白く。

 

なんだろうな、この楽し過ぎる世界線

意志とかの話ではないから、意志的世界観も採用できないという。

 

はい。

 

おやすみなさい。

 

楽しんでいますように。