独り占めできない世界

 

 

締めではなく1つの幕が閉じるだけ。終わるまで終わらない人生という物語。折に触れて満月が閉幕を演出してくれて、粋が過ぎる。同じく見上げている人は現実では見かけなかった。ここには居るだろうか。

 

 

 

知らない部屋で目覚めて開けたカーテンの先に晴天。自覚的には睡眠時間が短いはずだが、とても快活。外に出ると暑すぎず寒すぎず、歩くのにちょうどいい中庸的な体感温度。とりあえず1駅歩こうかと方向だけ合わせて歩いたが、通行止めだった。ガイドもそこから乗れと仰せ。そこから遠目に見える海岸線が待ち遠しく、駅に着く。

 

ただ、反対側に何か目を引く赤い鳥居が入ってきて、どうしても行かねばという気分になる。従来だったら単なる衝動とほんとに大事な場所の切り分けができなかったのだが、どうしても惹かれる。線路の反対側で、踏切が全然無くて挫けて良いかとなりそうだったが、少々の障害はものともしない。道筋も1回間違えたが、気にしない。

 

お稲荷さんだった。たどり着く前に考えていた、ある意味どうでも良い大事なこと。冒頭のお月様ではないが、僕は誰か(女性)と何処かに旅行に行くとき、相手の月のもののタイミングに当たることが多かった。素朴にはそれを目的としていないから特に気にならなかったが、常識的な振る舞いとしてどうしたものかと混乱があったのは確か。

 

ここから女性とは、物理界の天候とは別に定期的にやってくる嵐を内包しているという意味で、そりゃあ神秘的な存在だとなる。ただ、誰もが1つずつ宇宙を持っているという世界観からすれば、定時の嵐はどれだけの重みを持ちうるのかという話になってくる。

 

というくらいで、鳥居の場所に辿り着く。説明の看板は放置され過ぎてアナグラムのようになっていて読めない。それとは無関係に程良い空間がそこにはある。黄色いたんぽぽがのどかに笑っていて、ちんまりと祠がある。現金の使い方で何故か5円が貯まっているから、ちんと1つ。僕の場所の1つにさせていただく。

 

海岸線に向かう道中、この「僕の場所」の感覚ってマザー2のリリパットステップとかミルキーウェイみたいだと想う。この場所はあくまで内側の世界を見つけるとっかかりみたいなことで、それも似ている。

 

大型観光施設に辿り着き、アイスとアイスコーヒーを購入。ピスタチオのコリコリ食感の下にアフォガードの焦がしキャラメルの風味があり、とても美味しい。アイスコーヒーもきちんと濃ゆくて、口の中が止揚される。意図を感じる。

 

海岸では人がいっぱいいて、潮干狩りをしている。レジャーとしての食糧採取。お構いなしに先っぽまで歩いて海を味わう。海にもいくつか縁があって、それぞれ顔が違う。伊勢湾とか、静岡とか、淡路島とか、それぞれの赴き。

 

その後一括りの時間があったが、1人占めしておく。というか公開に適さないというか。

時間が遅くも早くもなく、濃縮して流れていく。ここでは時間に手応えがあったり。

 

手を拡げて海と太陽(と省略)からエネルギーを分配していただく。

 

ここからは移動。「風に戸惑う無邪気な僕―」と熱唱しながら海岸線を歩く。海に来たからには砂浜を足(靴越しでも)で触らないと済まない。触感の現実性はあまりに当たり前過ぎてあまり意識されないが、媒体ではある。

 

電車で来るときに気になっていた、山の上にある銅像。行こうと思ってある程度近づいたのだが、これは単なる衝動だったと切り分けて行かなかった。電車に乗って午睡でうとうと。

 

 

神宮の空気感はどこでも共通している。音が無くなる。熱田神宮京都御苑と空間がちょっと似ていた。カラスがいっぱい居たのは違う。たぶんここにしか木々が無いからだろうが、個人的には八咫烏居ないかなって目で追う。個人的には本堂に行く道中の大楠さんに会いに来たのだなという感じだった。頭にちょっと痛みがあった。千年の先輩。

 

本堂では賽銭箱に5円を落としたが、お祈りスペースに居る人が祈りに手一杯な感じで譲ってくれそうにないから、手は合わせずに引き返す。僕は神様の存在を信じている訳ではないが、なんとなく感じるところはある。神社に在る存在は歴史が継承してきた共通感覚としての神様だが、想いは現実を可変させるから、神様でも良いと思う。

 

ただ、少し。辛辣かもしれないが、その祈りスペースを独占すること(僕が行って帰るまでの2~3分一心不乱に祈っていた)で、他の「人」が祈れないということは分かっているのだろうか。なんなら「人」を意識できない人がどうして神様を意識できるのか。まぁこの恣意的な宗教性が人間臭い感じはある。神様すら専有できるという恣意的な独占欲。作法を準拠するというのもここに近そう。ルールに阿れば神様が応えてくれるって、なんとも恣意的な劇場感。

 

こういう世界観を持っている人はとても多いように見受けられる。

世界が保守的というか受動的に流れるとされるから、神様に変化を求める。

 

寺社仏閣の空間が好きだが、別に何か人生劇場に救済とか転調を求める為ではなく、ある意味お友達みたいな感覚。別に変なものが視覚として現われる訳でもなし。どうも、こんにちは。願いばっか一方的にされて大変じゃないですか、みたいな。信仰している人からすればけしからんと言われそうだが、僕の劇場ではないから言われたごめんなさいしてお暇する。

 

 

宗教でも常識でも何でも良いが、こういうのって法律学で言うところの推定的な世界観なのだろうな。ある事実があれば、ある効果(結果)が現実とできるという世界観。法律学ではあくまで推定で、反証があれば覆るのだが、因果がセットになっていると思い込んで生きていると反証を受け入れられなくなる。

 

関係もあくまで推定でしかない。

ふと、関係は語られるものでしかなく、という言葉が出てきたのが起き抜け。ニュースでアナウンスされるときに一言で示せるのが常識的な関係であって、推定的。恒常的で在ればいざこざなんて起きるべくもなく。

 

ここからがやっと本題。

 

間テクスト論のクリステヴァさんの読解本を読んでいて、僕は言語学について何も知らないなぁということが分かる。文学もそうだし、芸術学もそう。まぁ、理論を知らなくても使えるのが言葉だし、自分の言葉が一義に捉えられるに違いないと想えるのは、言葉を象徴として捉えているのだと思われる。記号だったら水平だからそうはならない。

 

言葉(テクスト)の解釈は、表現界の枠にも通じている。色彩を持たないつくる君は大学で色のついた灰田君に出逢って、人生劇場が転調する。聞き役でしかなかった自分が、話し手にもなり得るというところ。話すことは聞き手の存在を前提としている。聞き手が誰でも良い言葉にどれほどの意味があるのかという意味。

 

ソシュールが、言語としてのテクストをラングとパロールに分けたのが先駆けの模様。

ラングは僕が読み取った限り、言葉に自分だけのものということはなく、手垢が付いた熟練の道具という意味。パロールは現実世界の発話っぽいが、パロールも結局は手垢が付いている。

 

こういうのが構造主義と呼ぶのかと初めて知った。感じは味としては分かって居たが、切り分けてはいなかった。

 

クリステヴァさんはここから先に進む。言葉にはシニフィアン(文字・音)と、シニフィエ(イメージ・概念・意味内容)があるというのは言語学のアルファベットなのかも。僕はそんなレベル。

 

言葉を扱う以上、歴史が積んできた共通観念からは逃れられないのは当たり前として。

 

詩作は置いておいて、人が書く文章って基本的に構造主義

ここで言う構造は、仕組みというより、誰かに分かられるという意味。作法とか常識的形式に近い。

 

僕も劇評を書いたときはテクストの構造を分解して書いていた。劇評とはなんぞやといういう作法も調べたし。構造主義的な文章はその構造を分かっている界隈では共通項にできるという安心感がある。安心という枠。

 

この辺りをさっきの海岸線に行く道中に考えていた。

テクストとの枠からもっと離れて書いても良かったなって。

 

たしかに、「PIPE DREAM」を観た後に書いたのは日記だからテクストとは離れておった。

まぁ、劇評という枠でも、ややはみ出している感はなくもない。

 

で、構造についての思索。

 

構造とか仕組みとかの保守的な感覚はとても大事。それを踏まえてないと、歴史として繋がらないし、そんな言語は人が読めるものではない。

 

詩人のアマチュアとプロの違いは、記号的なシニフィアンの時間から外に行けるかどうか。

 

シュールレアリスムの本に引用されている左川ちかという方の詩は、普通に離れていてエネルギーをいただける。女性詩人で、女を語っているようだが、男女の前の人である存在mに至っている感じ。

 

この日記も日記の構造としては壊乱している。時系列も空間もてきとーだし。

(だから読者さんも増えない)

 

で、では、この個人の人生劇場は、シニフィエシニフィアンと構造と、何が問題になるのかという話。

 

基本的に世界は起こるものだから、受動的に解釈される。

僕もこういう世界で楽しくなっているのだが、これだけでは人生劇場を満喫しているとは言えない。

 

もっと、物語を能動的に書きこむこと。

端的に言えば、誰かを僕の人生劇場に巻き込むことを遠慮しないこと。

 

記号分析的世界観。

 

 

はい、おやすみなさい。

 

言葉に囚われていませんように。