存在と言葉

 

 

見えるのに光を反射しない透明。聞こえるのに無音。美味しいのに味付けが不明。香しい無臭。手触りがあるのに届かない。在るように感じるもの。

 

言葉には「こと」が付着していて多義的。

 

 

ベルグソンの「笑い」を探していたら、ハイデガー氏の「存在と時間」が現れた。ちょうど良いから読むことにする。もう1つはまぐわいと食の近さについて書かれた「性食考」という本。これ、なにゆえ買ったのだったか。また後で。

 

「笑い」を探していたのはひょんなことから、そろそろキルケゴールさんの「死に至る病」ももうええかなとなったため。自分に絶望することはもう無かろうし。自分は「こと」ではないというところに至るために宗教を媒介するというシステムは割と理に適っている気がする。ただ、素朴な自分でどこまで居て良いのかというのはありうる問い。

 

感じなくて久しいところで、本日の仕事は少し嫌だった。何が嫌かって、システムのバランスが取れていない。裁量で判断できない案件に当たってしまえば途端に滞る。なるべくぎりぎりのところを攻めているが、どうしても下っ端では無理なことがある。それを吸収するべき機関も忙しそうにしていて何か破綻がある。これも楽しめば良いのだが、荷重がかかっている機関(人)に丸投げするのも個人的には好きではない。

 

そういえば、会社も法人だが、国家も法人。法的知識がなくても株式会社みたいだと捉えている人が居た。法人のシステムはおべんきょ中だが、実体としては存在していないのだよな。数字とか観念として活動しているが、実体がないことについては無頓着で居られる。活動の為の機関が具体的な人だから認識としては問題ないのかもしれない。

 

この社会的に存在しているというレトリックが馴染めるのは、そもそも人は自己の存在もレトリックとして把握しているからなのではという節がなくもないという説。

 

存在の不思議。

この不思議さは、「存在を受け入れる」という意味不定の言葉があったからなのか、その前なのか。意味不定な言葉は世の中に溢れている。僕の歴史で言えば、「お前の笑顔はやばい」とか。

 

言葉は存在だろうか。

 

やっとこさハイデガーさん。

 

哲学界隈の本を積んできたからかもしれない。随分と読みやすい文章を書く哲学者だと思う。1回目は挫折している(しおりが前半辺りに挟んであった)。何で挫折したかというと、たぶん言語を線状的に追おうとしていたから。

 

まだ冒頭。存在を問うために存在への偏見を最低限提示しておくという段階。

 

存在は①普遍的概念である、②定義できない、③自明である。

 

ここのポイントは③と①。自明であり普遍であるというのは、ふんわり感じ取っている共通感覚の領分であって、存在と非存在が分かたれている訳ではない。哲学者でもそうなのだとすれば、況や一般人をや。

 

ここから②の定義できないとなる。これは言葉で表現できないという意味ではなく、言葉で区分けできるほど自己と分離していないということだと想う。感じるものではなく、そもそも在ること。太陽とか生活とか仕事とかもここに当たるのかもしれない。

 

僕はひねくれているので、冒頭の文で僕のいまのところから存在を定義してみた。

たしかに言語で定義(同定)はできないが、自明でも不変でもなく現在性があるもの。

 

存在について自分の言葉で問おうとする変人はまぁ居ないと思われる。

ここには別にスピリチュアルも宗教も必要ない。ただ素朴を追えばこうなるというあくまで僕界隈の描写。

 

昨日の物体的素朴から、今度は精神的素朴を書こうと企てて、精神は言語で記述できるものではないよなとなった。精神存在を言語で定義できるものではないとしている。

 

こうなってきてやっと、言葉は存在なのかという思索に至れる。

 

あぁ、ハイデガーさんの「存在と時間」って、これらが歴史的(社会的)なものでしかないって訥々と語っているのではという予想(100分名著読んだ人の日記から)。どちらも普遍でも自明でもないのは分かる。

 

 

個人的に僕が書いている漂流文と、素朴な存在は一致しているとしていない。

存在の表現であるとしても、そのものではない。あくまで遺跡みたいな存在。

 

 

この存在観で人を捉えると、良い風に言っても実在が伴わないとなんだかなぁって想う。

現実的でもなんでも良いが、存在感は、僕に対して何を言ったかというところではない。

 

どうでも良いが、感謝もなんだか言語世界みたいな節がある。

 

感謝って、返さなくても良い恩恵に対する報恩みたいな意味で、対価性がある言葉。

在り難いことについての感謝ではないよな。自分に対するメリットみたいな意味で僕はありがとうと遣わない。

 

僕の文章読んでいる人とお話したいなという存在関係は、現実的な越境であるのでこの前辞めた。普遍的な世界線の世界観を持っている人とは無理だ。

 

言霊は確かにあるけれど、この魂は、素朴な言葉に在る訳でもない。

 

この漂流文を読んでいる人に対して特に感謝はないです。

在り難いが、ありがたくはない。読みたい人が読んで居ればそれで良き。

 

他人から承認を得ることで充足される自己としての存在は、ほんとに存在しているものだろうか。依らないと保てない自己ってどういう存在なのだろう。

 

あんまり書くとアレなのでここまで。

 

おやすみなさい。

 

良い夢を。